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「今の気分はね、ああ、やっと、大人たちが私を認識してくれた、っていう感じ」
とは、南アのIDを手にした16歳のショウコです。これを言う彼女の頬はピンク色。こういったことも彼女を大人の世界にまた一歩近付けているのでしょう。 実は、南アフリカに住む人間にとって、特に子どもたちに取って、“16歳”は、大きな意味があります。 南アフリカには、「身分証明書=ID(Identification Document)」というのもがあり、南ア人として実際にこれがないと、クレジットカードの申し込みから不動産購入まで、ほぼ何もできない、と言っても過言ではありません。 ただしこれは、南ア人と、南アの永住権を持つ人間にだけに交付が認められており、南アで働きたい場合は、これか労働許可証がないとどうにもなりません。 そして、南ア人でも永住組でも、このIDが発行されるのが、満16歳になってからなのです。 日本でも一時、「国民総背番号」という言葉が聞こえてきた時期もありました。が、日本は市役所などが極めて迅速に住民サービスを行ってくれるので、こういった“証明書”が必要なのかどうかも分かりません。 ところが、南アは多くの他の国々と同じように、“住民票”やら“戸籍”といったものがないので、「本人証明」と言うと、かなりややこしいことになるのです。 ちょっと脱線しますが、“戸籍”というシステムは、世界的にみるとかなり特殊なシステムで、採用している国は、東アジアの中華文明圏のみだそうです。これは、家族集団の認定を大切にする国などにしかないもの、という“戸籍”の裏にある考え方自体に驚かされます。 この“戸籍”、英語に翻訳すると、Family Registry という言葉に変わります。家族の登録、とでも直訳し直せます。そして、こういった戸籍がないということは、網羅的に家族の法律上の立場を証明するものもない、ということです。 つまり、家族の在り方を一つの登録した書類で示すのではなく、個人の証明であれば、個人の身分証明書、結婚を証明するものであれば、結婚証明書、出生を証明するものが、出生証明書、というそれぞれ独立した証明書が存在するのです。 日本に住む方にとって、この “戸籍”、“住民票”というお役所の発行してくれる書類はあまりに身近で、これらがなかったら、と考えることはないと思うのです。 しかし、ちょっと想像してみてくださいね。もしも、こういった公の書類がそもそも存在しなかったとしたら、どうでしょうか。 つまり、本人を証明するものが非常に限定されてしまう、ということなのです。 日本でも、写真の付いた証明書が必要な場合、運転免許証やパスポートを所持しないお年寄りがとっても困る場合がある、ということを聞いたことがあります。 ただ、日本であれば、こういった“住民票”、“戸籍”からその人の身元を確認する道はまだ残されていると思います。 ところが、南アに限らず、“出生証明書”に端を発し、そこからある年齢になって給付される“身分証明者”は、本当にこの小さな小冊子、あるいは出生証明書という紙切れ一枚にその人の“証明”を託すことになり、ここでこれを「持っているか」、「持っていないか」がその人の運命さえも変えてしまうことになってしまいます。 自分のIDを収得して、ニコニコ顔のショウコを見ながら、私の胸を暗くしたのは、このIDがないがために、HIV/Aids の治療を受けさせてもらえずに亡くなっていった患者さんたちのことでした。私が関わっていたHIV/Aids の症状措置緩和病院、Dream Centerでのことでした。 先ほども述べたように、このID、簡単な小冊子です。サイズは日本パスポートとほぼ同じ。 そして、南アのIDとは、実は、極めて価値のある“証明書”なのです。ということは、このIDは盗難の対象ともなるのです。 南ア人でありながら、IDを盗まれてしまって、自分が南ア人である、という証明のできない患者さんがたくさんいました。日本であれば、再発行という手続きはいとも簡単にできるでしょう。でも、つい2,3年前のダーバンでは、IDの発行に半年もかかっていたのです。エイズを発症している患者さんであれば、半年の内に命を落とすことは不思議なことではないのです。 また、南ア人以外の患者さんは当然このIDを持っていません。 アフリカは陸続きの国が多いので、国境を非合法的に超えてしまうことはよくあることです。もちろん、正規に労働者として南アに入国してくる近隣のアフリカ人もたくさんいます。が、中には、観光ビザで南アに入国し、そのまま違法滞在しているケースもたくさんあるのです。 故郷をそんな形で離れる、ということは家族とも別れ離れになっていることも多いのです。そうすると、生活が荒れる場合も多く、不法滞在をしているアフリカ人の中には、複数の性的関係を持ったがゆえに、HIV/Aids に感染してしまう確率が高いのも事実です。 南アのエイズ関連の治療は、南ア人である、ということを証明さえできて、ある一定の条件をクリアできれば、抗エイズ薬の治療が受けられます。 ということは、IDを持たない外国人には、この恩恵は行きわたりません。 Dream Center のベッドの上で、他の南ア人の患者が次々と抗エイズ薬を投与される順番を待つ間、この南アの深緑色したIDがないがために、治療を受けさせてもらえず、一日一日、自分の命が先細くなっているのを待つしかなかった患者さんのあの顔、この顔が浮かんできました。 自分の生まれてくる国は選べないのに……。何かの偶然で私は日本人に生まれました。私を親に持つショウコ、カンジも国籍は日本人です。 このあまりにも偶然性の高い人生のありよう、これを「運命」と言ってしまっていいものか……。 でも、これを「運命」と言うのなら、このアフリカで命を落とした夫、稔も警察の検死室から自宅に戻された際、彼の遺体から盗まれていたものがありました。 それは、彼が結婚してから決して外すことのなかった結婚指輪、そして、常に腰につけていた財布に入っていた南アのIDでした。警察の検死室から盗まれたとしか説明がつかないこの状態に言葉を失くしました。 私は、この無くなってしまった遺品を思い幾晩か泣いたあと、警察と争ってこの二つの行方を確かめる手立てを探ることを断念しました。 勝てない争いだから断念したのではありません。 夫の肌身離さず持っていたこの二点が、この期に及んで夫から切り離されるのであれば、きっと、それもまた運命なのだろう、という諦観にも似た考えが自然に湧きあがってきたからです。 私にとって、アフリカの現実を受け入れる、ということはこういうことなのだなぁ、と客観的にもなれました。 お役所の発行する死亡証明書も、このIDがなかったために、通常のコンピューターで作成されるものではなく、手書きのIDの番号が空欄のお粗末なものでした。 そして、私は、その粗末な死亡証明書を手にして、夫の中途で閉ざされた志がそこに表現されていると思いました。 アフリカに住むという積極的な選択をしてここにいる私たち。そのアフリカで命を落とした夫。そして、私たちのここにいる証である南アのIDが彼の遺体から警察で盗まれた、という事実。 私はこのことから、夫の遺志を何らかの形で継続させろ、という強いエネルギーを持ったメッセージを受け取りました。絶望でも、焦りでも、そして怒りでもなく、これからの指針を示された、でも言ったらいいでしょうか。 「逃げる口実にするなよ」 「するわけないよね〜」 と夫と話しているような気持ちになったのです。 南アのID。お役所の発行するこんな“証明書”ひとつが引き起こす様々な出来事に喜んだり、がっかりしたり、そして叱咤激励されたりしています。 ■
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by yoshimuramineko
| 2010-10-05 17:10
| アフリカの空のした
ノリさんを通じて、この頃、プロのサッカー選手たちに接する機会が増えています。これまでの私の生活ではあまりお付き合いのなかった人たちです。
そうすると、いかに私が彼らに対して、“偏見”とまではいかないにしても、漠然としてはいるものの、“色メガネ”的な態度を持っていたかを思い知らされています。 2010年9月22日は、日本人初南アのプロサッカー選手、村上範和選手の移籍したチーム、Golden Arrows での初の試合がありました。今シーズン、チームとしては三試合目だったのですが、ノリさんは外国人選手ですので、労働許可などの手続きに時間がかかり、移籍後、すべての面がクリアーになって、試合出場ができるようになったのが、この日の試合だったのです。 後半、71分にノリさん登場!私はノリさんの奥さんや彼らの愛娘メイちゃんと一緒に観戦していました。 GAの新しい監督ZORAN FILIPOVIC氏とノリさんの愛娘メイちゃん 私はもう身びいきもいいところですから、ストライカーであるノリさんの足元に、 「ボールよ、ノリさんに来い!!!!!!!」 と念じていました。 でも、このボールを自分のところに集めるのって、確かに簡単なことではないですよね。だって、サッカーゲームのゴールは、それこそ、「ゴールを決めること」。それを一人の選手に託する、ということは、その人をいかに信頼できるかにかかっています。 チーム内でのその人の役割も、長く一緒にプレーをしていれば理解してもらえることなのかもしれません。 が、ノリさんはまだ移籍して一カ月足らず。いくら毎日一緒に練習していたとしても、大切な勝機において、ボールをしっかりパスしてもらうのは、他の選手たちに彼への理解度、信頼感がどのくらい育ってきているのか、未知数です。 でも、彼らはさすが、プロの選手たちです。 自分たちのチームにとって必要と認める時には、素晴らしい連携プレーができるのですね。今回、この試合を見ていて本当に感激してしまいました。 ノリさんが出場してから13分後の85分に、ノリさんに回ってきたボール。そして、それをノリさんは目が覚めるようなパスを味方選手、Vusi Vilakaziに回し、そのボールがセカンド・ゴールを決めたのです。 その長い一直線のパスの美しさ。ノリさんの存在感を示すには抜群でした。ノリさんのシュートでゴールを決めたわけではないのですが、私には彼がチームの一員になっている何よりの確かな証拠のような気持ちになりました。 しかし、何といっても、繰り返しのようになりますが、サッカーの試合において、一番大切なのは、「ゴールを決めること」。この本当にすがすがしいほど単純な図式に感動してしまいました。 世の中、複雑なことが多いけれど、例えば、自分の好きなチームを決めて、そのチームの試合を追い、そのチームがゴールを決めることに他のことすべてを忘れて夢中になる……。 これ、とっても素敵なことに思えてきましたよ〜。 さて、最後にちょっと素敵なこぼれ話をひとつ。 ノリさんのチームメイトの一人、ゴールデンアローズのゴールキーパーの一人はブラジル人のHELTON FERREIRA DA ROCHAです。 南アに来て2年目の彼は、ここで、ゴールデンアローズと三年延長の再契約を決めたばかりです。このエルトン、素晴らしいゴーリーなんですよ。この三試合目も、彼の素晴らしい動きがなかったら、相手チームにも得点があったはずなんです。 ゴールデンアローズが、彼の2年目の早々に早くも三年間の延長を決めたのは、何よりも彼を他のチームに取られたくないからでしょう。 そのエルトンさん。実は大のお寿司好き。先週の週末は、このエルトンさんのお誘いで、彼のブラジル人の友人宅のブライ、南ア式バーベキューに私も招待されて出かけてきました。もちろん、新鮮なお刺身を太巻きに11本も巻いたお寿司を持参して。 ノリさんとエルトン、ブラジル式ハツの串焼き さて、その晩のこと、私は例の試合で、彼の阻止したいくつかのシュートのことを「素晴らしかったわね」と伝えたのです。 でも、私としては、ブラジルでも華々しい活躍をしていた彼のこと、そんな褒め言葉なんて、どれだけ頻繁に聞いていることだろうから、軽く、いなされるのかな、とも思っていたのです。 そうしたら、エルトンさん。そのモデルさんにでもなれるようなハンサムな顔をぽっと赤らめて、 「本当?」 と言うではないですか! 私はその反応に心からびっくりしてしまいました。 そうか、そうですよね。どんなに功を成した人だって、人に褒められて嬉しくない人はいないのでした。プロのサッカー選手だって、同じことだったのですよね。 こんな簡単なことを私は忘れていたのでした。 スポーツの世界にちょと足を入れ始めた私は、こんなことにもものごく感動しながら、いろいろアンテナを張っていきたいと思っています。 エルトンの2番目の赤ちゃんと。 このごろ、おばあちゃん役の多いこと! お知らせ 空色庵も更新しています。どうぞご覧くださいね。 ■
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by yoshimuramineko
| 2010-09-28 22:09
| スポーツの世界
「人生何があるか分からない」とは、良い意味でも悪い意味でも、多くの人がそれぞれの人生で実感することだと思います。
先週訪れたある家族のおじいさんにとって、この言葉はあまりにも重く、あまりにも厳しいものでした。 Mhlongo家は、ダーバンの近郊、Kwandingezi という地域にあります。実は、この地域、私の家からそう遠くないのです。直線距離にしたら20キロもないでしょう。が、普段走り慣れた街並みから、ちょっと離れただけで、そこにはいわゆる“アフリカ”が広がっていました。 私の住む地域は、丘の上の住宅地で、道路もきれいに整備され、敷地の広いお屋敷が並んでいます。隣とのお付き合いは、こちらからかなり働きかけないとほとんど存在しないような環境で、人々は電気柵に囲まれた家で、犯罪に会わないよう、堅く門を閉じ暮らしています。 が、このKwandingeziは、もちろん家と家の間には柵はなく、子どもたちは自分の家や人の家との区別なく自由に遊んでいる闊達さがあります。 しかし、残念ながら、地域の清掃はあまり行き届いているとは言えず、多くの秩序のある“アフリカの田舎”を知っている私にとって、この地域が荒廃しつつあることが見てとれました。 この日の訪問は、私のここダーバンでの一番親しい友人、サリーのお供だったのですが、いま、英語を教えさせてもらっている日本人の生徒さんにも声をかけて一緒に行ってもらいました。 あまりこういった地域に入る機会のない日本人にとって、こういった形で地域が荒廃していく様を見て、これが“アフリカの田舎”の当たり前の景色、と捉えられたら困るなぁ、とも思っていました。 落ち着いたアフリカの田舎の清々しさは心が洗われるくらい素敵です。 地域に長老がいて、村の掟があって、子どもたちは大人たちの大きな庇護のもと、いきいきとしています。これがHIVなどの伝染病に侵される前の“平和なアフリカの村”の一般的な風景でした。 が、このKwandingeziに住むMhlongo一家が経験した、それこそ、“あれよあれよ”と言う間の転落の歴史は、いまとなっては、国を問わず多くのアフリカの家族が辿る道になっているように思います。 このMhlongo一家、たった4年前までは、車も数台、テレビもPCも保有する地域ではかなり有名な裕福な家族だったのです。 ところがいまは、祖母祖父がなんと20名もの孫たちを育てている現状になってしまいました。 子どもたちの親はどうしたと思いますか? 子どもたちの年齢、下は4カ月から上は10代の後半まで広がっています。つまりこの子どもたちの親は働き盛りの年齢なのです。 この子どもたちの祖父母にあたる夫婦には、そもそも16名の子どもがいたのです。ところが、2010年9月現在、生存しているのはそのうちの3名のみ。また、この3名の中の1名はもう寿命いくばくか、というくらい病に伏せっています。 そうです。子どもたちの大変はHIV/Aids に感染して、その若い命をむざむざ落としているのです。一家の働き手が続々病で命を落としたとしたら、当然、収入が無くなり、持ち物を切り売りする、人に頼る、といった術しかなくなるわけです。 彼らもまさにそのまま転落していったのです。 祖母にあたる女性が泣きながらこう言いました。 「先週は、本当に食べるものがなくて、自殺をしようとしたら、村人が病院(サリーの働く病院)に連絡してくれて、何人かの人が援助してくれたの。こんなに嬉しいことはないです」 HI/Aidsは、本当に恐ろしい病気だと思います。以前住んでいたマラウィでも、あれよ、あれよという間に、村全体が消滅してしまうのではないか、と思うくらい働き盛りの人々がこの病気にかかり命を落としていました。 この赤ちゃんは生後1か月で母を亡くしました。 HIV/Aids が恐ろしいのは、性交渉や麻薬などで使い回す針などで、体液を介してそのウイルスが伝染していくのですが、潜伏期間が3年から12,3年もあることがあり、自分がHIVウイルスに感染していることを知らずに、自分のパートナーにウイルスを感染させてしまう、ということがあります。 アフリカの性交渉に対する認識は、欧米や日本のそれとは違いがあり、結婚、あるいは親密な関係に入ることを前提にしなくても性交渉を持つ習慣がある部族があることも事実です。 でも、これを“ふしだら”と決めつけても何もなりません。 ご飯よりもパンを好む、という食習慣が、“異文化”として認められるのであれば、性交渉の相手を自分たちよりも頻繁に変えることも、その文化に生ききていない人間たちが批判しても、なんの突破口は見えてきません。 異文化を真に受け入れるということはかなりしんどい作業であることに間違いないのです。 が、頭から批判してもどうにもなりません。 日本人の生徒さんたちに聞かれました。 「どうしたら、悪の循環を断ち切ることができるのですか」 私の答えは明確です。 「変化をもたらして、村人たちが自分たちの意思でもっとよい将来を築きあげたい、と思うような教育を幼いころから充実させる以外にないのでは」 どんなに援助をしてもらっても、最終的に自分の足で自分を支えなくては、それは真の意味での自立ではありません。 今回、私はサッカーボールを携えて、彼らの家を訪問しました。日本の人々の善意をサッカーボールに乗せて、この一家の子どもたちを励ましたい、と思ったのです。 が、庭の周りには、寄付でもらったような、発色の美しい、クレヨンが無残にも地面に放置されていました。 せっかくの寄付を大事に扱わないのは、「躾が悪い」からではないのです。 クレヨンなどを持ったこともない子どもたちは、それを箱に入れて、繰り返し、繰り返し、自分たちの遊びに使う、という発想そのものがないのです。 援助をぞんざいに扱っているのではなくて、「大切に扱う」という習慣が、人がくれるおもちゃに対しての“お礼”になる、と結びつかないのです。 久しぶりに訪れた現地のHIVの被害にさらされている人たち。その現実の厳しさに立ちつくす思いでした。 ■
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by yoshimuramineko
| 2010-09-22 07:09
| HIV/Aids
今年の Vogue Ball のテーマは、何と、“ニューヨークのセントラルパークの冬”でした。
当日の会場は、普段、多目的のスポーツ会場として使用されるところなのですが、天井には白いレースが張り巡らされ、会場の半分は当日の夕食も供されるダイニング・ホール、後の半分はお母さん委員会の力作である“冬のセントラルパークのスケート場”といった趣に衣替えされていました。 ダンスはワルツ、クイック・ステップ、チャチャ、ジャイブ、ラインダンスなどが軒並みにメニューとして登っていました。ダンスの途中には、サラダ、メインコース、デザートといった食事も供されました。可愛らしいウエイトレスは、全員が学校の9年生たち。来年の自分たちの主役の日のために、ウエイトレスをさせられながら、その雰囲気を学んでいるようでした。 さあ、この写真をご覧ください。お嬢様方、もうまばゆいくらいの美しさでしたよ。 全員が15〜6歳なのに、びっくりです。 ショウコからの情報によると、お嬢様たちのドレス、ほとんど全員が新調したようで、価格も1万円から5、6万円もするものもあったようです。洋服などの価格が比較的廉価な南アにおいて、この値段はすごいものがあります。 実は、我が家のショウコ姫、こういうところは非常に金銭感覚が鋭くて、 「お母さん、私は買わなくていいの。レンタルで十分。あんなファンシーなドレス、自分のものにしたって、何回も着られるわけじゃないでしょう?それだったら、また別の機会にダンスがあったとしたら、別のものをレンタルしてもらったほうが私は嬉しい」 というご意見でした。 よって、彼女のドレスはレンタルで、レンタル料は占めて日本円にして、4000円ほどでした。が、その代わりとして約6000円のサンダル、5000円の美容院代、300円の髪飾りはニコニコ顔でお支払いをさせてもらいました。 実は、彼女たち、交友関係が広ければ、広いほど、学校別にこういうダンスパーティの機会はあるわけです。そして、ここが面白いのですが、彼女たち彼たち、その時特別に付き合っているボーイフレンドやガールフレンドがいなければ、本当に気軽に友達同士を誘いあって、パートナーとなります。 どうやらショウコも来年あたりはその辺を狙っているようで、「お母さん、またドレス、レンタルでいいから借りてね」と打診されてしまいました。 さて、今回、このVogue Ball の趣旨は、大人の女性に近づいてきた彼女たちを、父親が最初のワルツを彼女たちと踊る、というものです。 このコラムの読者の皆さんは、ショウコの父親、私の夫が、今年の3月に不慮の事故に合い、死亡していることをご存知です。 実は、ショウコがこんなことを言っていたのです。 「あのね、今年、お父さんが亡くなった子が3人いるんだよ。だからね、私たちは最初と最後のお父さんと娘のワルツの時は、3人でトイレに入って、泣いちゃうんだ」 これを聞いた私は、ショウコにトイレに入って泣かせるわけにはいかない、と心に誓いました。 ショウコは、明るく健康的な、とにかく前向きな16歳の少女です。 そんな彼女が、16歳であれだけ自分のことを愛していてくれた父親を亡くす、という衝撃はいかほどのものがあるのでしょう。 私が25年近く連れ沿った配偶者を突然亡くすのとは、またまったく違う意味の喪失感が彼女を襲ったのだと思います。 こんなショウコのために、私はショウコのワルツの相手を誰に頼もうか、と一生懸命考えました。 現在のショウコをよく知っていて、ショウコが心から信頼できて、そして父親を亡くした彼女を抱擁できる……。 不思議なことに、その人は、今年私が仕事を通じて知り合った、ナイジェリア人のマイク・フォーラ・ドクンムさんでした。 彼はワールドカップ観戦でダーバンに来た時、ショウコを伴って、ナイジェリア対韓国の試合に一緒に行ったり、私たちがヨハネスブルグに行ったときにヨハネスを案内してくれたり、と会うたびに交友が深くなっていたのです。 実は、夫が亡くなってから、人とのお付き合いをなんとなく敬遠していた私たち家族に、マイクはその持前の明るさで、陽の当たる方へ、もっと風通しのよい方へと、背中を押してくれるような存在になっていたのです。 私は1986年から1990年まで過ごしたあの西アフリカのリベリアでの日々が、ナイジェリア人の彼と一緒に時間を過ごすことによって、再現されるような気分にもなっていました。 どうして、私たち3人は、こんなにマイクと一緒にいると楽しいのかな、と子どもたちに話したところ、カンジとショウコの答えは明確でした。 「お母さん、気がつかなかった?マイクって、ナイジェリアバージョンの稔お父さんじゃない」 実は、これを聞いて、私は愕然としたのです。 確かに、マイクと稔には重なるところがあるのです。でも、もちろん、まったく別の人生を歩いている二人ですので、違うところもたくさんあります。 でも、どうしてショウコが、カンジが、私が、マイクといると、ここまで安心して楽しい時間が過ごせるか、ということがやっと理解できた気もしました。 実は、いま、私はスポーツという一つの分野を通して、本を書きたいと思っています。それは、スポーツを通して実現できる人々への励まし、エンパワーメントという可能性に大きく心を惹かれているからです。 その中心人物となるのが、稔であり、このマイクなのです。 いま、稔の生前にしたかったこと、そしてこのマイクのこれまで、そしてこれから先のことをじっくり観察しています。 アフリカに何かを残そうと奮闘した稔のこと、彼の残したこと、そしてこのナイジェリアで生まれ、18歳で英国に移り、そしてさらにこの南アフリカを選び、この地でスポーツ関連の代理人という職業を通してマイクがしようとしている大いなる野望を私は広く世界に知らしめたいと思うのです。 稔のことをこういった形で文章にすること自体が私にとって、癒しの時間になっています。そして、マイクへの取材を通して、これから私ができること、したいこと、もずいぶん形がはっきりとしてきました。 Vogue Ball というショウコの学校の行事を通して、こんな形で心が前進していくことを実感できて、私は新しい可能性にわくわくしているところです。 ショウコの今宵のパートナーのキャッシュ君とマイクと私。 私もウン十年ぶりにフロア丈のドレスを着るはめに……。■
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by yoshimuramineko
| 2010-09-14 06:09
| アフリカの学校と子どもたち
8月に書かせていただいたVogue Ball のことを覚えていらっしゃいますか?
これは、娘ショウコの学校で行われている行事の一つで、ショウコたちの学年の女の子たちが、“大人の女性”への最初の一歩を踏み出すための儀式のようなもの、とでもいったらいいでしょうか。 そして、そのメインのダンスパーティに先駆けて、その前の一週間、彼女たち10年生は、学校の校庭にテントを張って“不便な生活”を体験します。そして、日中は学校の近所の貧しい地域で朝から夕方までボランティア活動に精を出すのです。 これは、一重に、このプログラムでは、彼女たちが生活する南アフリカの現実を再認識し、自分たちに何ができるかをじっくりと考える機会にしたいからなのです。 彼女たちの通う私立の女子高は、学費が年間日本円にして100万円ほど。10年経験のある教師の月給が12〜15万円ほどの南アにおいて、この学費を負担できる家庭は裕福な層に属します。 ということは……! そうです、彼女たち、家ではメイドさんがいる家庭のお嬢様がほとんどで、家事などは一切したことがない、と言ってもいいくらいなのです。 たまに、ショウコがそういった彼女たちを我が家に連れてきて、我が家のお皿洗いを手伝わされて、びっくりされることもしばしばあります。我が家にも家事をしてくれるスタッフがいるのですが、週末にはお皿洗いなどは全員でするのです。 と言う彼女たちですので、この4泊5日のテント自炊生活、かなり厳しいものがあったようですよ。 彼女たちをキャンプ3日目に取材に行ってきたのですが、おもしろかったのは、昼間のコミュニティ・サービスのことは大変好意的な意見が大半だったものの、キャンプに関しては、 「もう3日間もインスタント・ヌードルだけ!」 「野菜を食べたいのに、何もない!」 「タンパク質をまったく食べてない!」 「スナックで生き延びているんですけど……」 と、かなり自分たちの計画に問題があったことなど棚の上に置いて、文句のオンパレードでした。 ショウコも、 「お母さん、取材にくるんだったら、ニンジン・スティックを持ってきて!」と、持ってはいけないはずの携帯電話から連絡してきました。 さて、このコミュニティ・サービスもなかなかユニークな形で進められていました。 こういったコミュニティ・サービスなり、ボランティア活動を地域でしようとする場合、日本であれば、直接その団体の関係者がいろいろな調整に入ると思うのですが、南アには、こういった活動をしたいグループは、こういった調整を“仕事”としている団体に、その準備段階からその調整をコーディネイトしてもらいます。 もちろん、そこには費用も発生するのですが、こういった団体はプロ中のプロですから、不必要なプロセスが省けますし、また貧しい地域での活動などで懸念される、“安全性”といった目に見えないながらも、非常に重要な要素である調整内容に、安心感がプラスされるのです。 また、その活動費さえも、一般企業から資金調達することも、彼らの調整内容に含まれているので、学校など、普段予算ぎりぎりで活動をしなくてはいけない団体などにとって、こういった外部の団体を上手に利用していくことは、これからのコミュニティ活動には不可欠なことになってきています。 今回の企画運営を仕切ったのは、African Exposure というコミュニティ開発の小さな組織でした。 社会的にこういった組織にもきちんと運営資金が流れるようになっていることは素晴らしいと思いました。何よりもこれはかなり効率のよいシステムです。こういった組織は丁寧に活動をしていれば、なにより大事なネットワークや、人脈が蓄積されていきますし、ただでさえ忙しい学校の教員が普段の業務以外の活動を強いられることもなくなります。 さて、今回彼女たちのコミュニティ・サービスは、タンダナニという地域にある小さな小学校を改良することで、具体的には以下のプロジェクトを実行しました。 ?図書館を作る ?外のトイレの前にある壁をペイントする ?教室の前の庭に花を植える この?の図書館に入れる本や資料も彼女たちが何カ月もかけて、皆から寄付を募り集めたものです。?のペイントも子どもたちも参加して、毎日にぎやかに行われていました。?の花もなかなか時間はかかりそうですが、普段はこういう学校ではここまで目が届きにくいところですので、子どもたちも嬉しそうでした。 今回のこのプロジェクトは、このAfrican Exposureが、デロイトという世界的な法律事務所のピーターマッリツバーグ事務所に声をかけ、彼女たちの活動に必要な資金はほとんどデロイトが負担してくれました。 南アでは、一般企業が社会貢献をするのは、その会社の義務と位置付けられていて、この会社も、毎年、社員一人につき、日本円にして12000円相当の寄付を地元に還元することを実行しているそうです。 また、このテロイト・ピーターマッリツバーグ事務所では、この会社側からの金銭的負担の他に、20名の社員全員が、一年に一日、自分たちの労働力をこういった活動に使うことも義務付けているということでした。 たまたま、昨年から始まったこの学校の改善活動に彼らも関わっていて、ショウコたち女子高校生と一緒に、この学校で、給食用の野菜畑の苗床になるためのスペースをコンクリートで固めていました。 最後に、女子高校生の参加者たちに、この活動についての意見を聞いてみました。 「とっても楽しいです。小さな子どもたちが私たちのしていることをとっても喜んでくれているのがとっても嬉しい」 「作業(ペンキなど)をする前にはもっと難しいかと思ったけれど、思ったより簡単でした。人がハッピーになることをするのは楽しい」 「こういうことをもっと定期的にしてみたい」 「子どもたちと遊んでとっても楽しかった」 「学校に図書館がないなんて駄目だもの。図書館ができて嬉しい」 みんなの心が確実に暖かくなっていることがわかるようなコメントばかりでした。そして、何よりも、作業中に高らかに響いていた彼女たちの笑い声がとっても素敵でした。 さて、来週はいよいよ本番のVogue Ball--- ダンスパーティのご報告です。お楽しみに! ■
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by yoshimuramineko
| 2010-09-06 23:09
| アフリカの学校と子どもたち
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