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時の政策が人の運命を変える、ということはどこの国でも、どの時代でもあったことなのかもしれません。
日本の戦国時代の武将たちだって、明治の国造りの中心にいた人たちだって、時の権力、政策にはこれでもか、これでもか、と翻弄されてきています。 今回皆さんにお伝えしたいのは、先週亡くなった、南ア保健省の元大臣のことです。享年69歳でした。 Dr. Manto Tshabalala-Msimang 1940-2009 彼女の名はマント・シャバララ・ムシィマング博士(Dr. Manto Tshabalala-Msimang)。1940年、ダーバンを擁するクワズールナタール州に生まれました。 彼女は、1959年に高校を卒業し、南アの元大統領であるネルソン・マンデラ氏、ターボ・ムベキ氏も学んだ名門大学、Fort Hare Universityに入学しました。この当時、黒人女性が大学に進学する、ということは彼女の優秀性を物語っています。彼女は、他の黒人学生同様、ANCの政治活動にも積極的に参加していきます。 実は、この大学時代に出会ったターボ・ムベキ氏と彼女の「同士」としての運命が、彼女の人生を大きく変えることになったのです。 1962年にANCが非合法組織となったことにより、彼女は他の27名のANCの仲間と共に国外に亡命します。その時、彼女の母は、彼女に、「医者になるように」と言い伝えました。彼女はその教えを忠実に実行し、ソ連のレニングラード・メディカル・インスティテュートで医学を修めました。その後、ベルギーのアントワープ大学より公衆衛生の修士課程も修めています。彼女は医学を修めたロシア語、フランス語、また、タンザニアでの医療活動などで、タンザニアの公用語であるスワヒリ語にも堪能でした。 こういう経歴から読み取れるのは、彼女の勤勉性と不屈の行動力でしょう。アフリカ人の亡命女子学生が一つ一つ、外国で自分のキャリアを積み上げていくのは、並大抵の努力ではなかったはずです。 彼女が、1990年に南アに帰国してからは、ムベキ氏に極めて近い同士として、ANCの要職を登りつめていきます。国会議員に当選したのは、南アの全人種参加の年1994年です。 1996年から1999年は法務副大臣、そして1999年からムベキ政権が失脚する2008年まで彼女は保健省の大臣として様々な政治闘争に絡んでいきます。 さて、私は、ほぼ無条件に女性を応援したい、と思ってしまう癖があります。ましてや、アフリカの女性が、幾多の困難の果て、社会的に影響力のある仕事をしているとき、その背景にある彼女たちの努力や厳しい現実を想像できてしまうから、余計です。 が、マントに関しては、私は彼女の主張に怒りを覚えていました。 「怒り」と共に、「どうして?」という思いも強かったかもしれません。 実は、彼女と彼女のボスであった元大統領ムベキ氏は、南アにおけるエイズ治療を著しく遅らせた政治家でした。この医療政策により、300,000人の命が奪われた、という報告もあるくらいです。 まず、ムベキ元大統領が「AIDSは本当にHIVが起こしているのか」という疑問を彼の政権内で初めて口にしました。この「HIVがAIDSの原因ではない」という主張は、確かに存在します。 ただ、これは科学的に証明されたわけではなく、世界の先進的なAIDS治療は、HIVをAIDS発症の原因とし、感染が確認された時点で、ARV というAIDSを発症させるのを遅らせる治療薬を患者に投与しています。 先進国などで、HIV感染者がARVを感染の初期の段階で投与され、休息やバランスの取れた食生活などを敢行することによって、HIVの発症をかなりの高い確率で抑えられるようになってきていることがこの治療方法の“正しさ”、と“難しさ”を示しています。 “難しさ”というのは、世界のAIDS患者の内、圧倒的大多数の途上国に住む患者さんたちにとって、早い段階でのARV治療、バランスの取れた食生活、この双方が簡単に手に入るものではないからです。 ムベキ大統領は、任期中、「私の知り合いでエイズ患者はいない」などという発言をするくらい、エイズに関しては無知であり、その治療などに積極的に動くことはありませんでした。 さて、話題をマントに戻しましょう。 彼女は保健省の大臣として、何をAIDSの治療方法として提案したか、ということです。 彼女は、実は、Dr. Beetroot という異名をメディアから与えられていました。そうです、彼女の主張は、AIDSの治療として、患者の免疫力を高めるため、食用ビーツ(Beetroot)、にんにく、オリーブ油がARVよりも効果がある、というものでした。 これは、世界中のエイズ治療に関わる人々から大きな批判を浴びる結果になりました。南ア国内でも、彼女の保健省の大臣としての罷免を求める声は非常に大きなものでした。特に、2006年トロントで行われた世界エイズ会議の会場で、南ア政府がこの三つの食品を提示したことは、多くのエイズ治療の現場に立つ医師たちが、「南アのエイズ治療を屈辱した」と猛烈な抗議をし、大騒ぎとなりました。 が、ムベキ大統領はこういった批判には揺るぎませんでした。 しかし、こういった“代替治療”には、怪しげな人間も集まるのです。彼女の失敗は、こういった自分の利益重視の人々を周りに置いたことでしょう。自分の調合したビタミン剤を販売したい人物とか、アフリカの伝統治療をエイズ治療に持ち込みたい人物とか。 ビタミンが悪いのでも、伝統治療にまったく効き目がない訳ではないのです。でも、エイズは、血液などを介して広がる伝染病なのです。ビタミンだけでは、伝統治療だけではエイズに罹った人を救えないのです。 私が関わっていたエイズ患者さんの症状緩和措置病院、ドリームセンターも、ARVの治療をすることで保健省からの認可が下りている病院でした。しかし、去年のある時期、こういった認可条件があるにも関わらず、「ベッド数を増やしたいなら、この伝統治療とARVの双方を試す、“実験”を受け入れてくれ」という保健省のマントの主張に近いセクションが密約をドリームセンター経営陣に持ちかけてきたのです。 ベッド数の増加は補助金の増加、ということです。 ドリームセンター経営陣は患者さんよりも、収入がなによりも欲しい、という人たちでした。 この極秘情報を入手した私とある職員は、裏で懸命に動き、何とかその実施を延期させることに成功したのです。どう考えても、この“実験”が患者さんたちのためになるとは思えなかったからです。 そして、その渦中、ムベキ元大統領が政治的に失脚し、暫定政権が誕生しました。 すると、どうでしょう。ここからが、まるでドラマのような展開が始まったのです。 ムベキ大統領退陣、マント退陣、という流れの中で、ドリームセンターの汚職にまみれていた経営陣を守っていた保健省のある一部の役人にも厳しい査定が入り、ドリームセンターがこれまで逃れていた保健省のきちんとした審査が行われました。 その結果が、今年の3月のドリームセンターの閉鎖、ということになったのです。まさに、時代が大きく動いていきました。 私がマントに「どうして?」と聞きたかったのは、彼女は医師として、エイズに苦しんでいる患者さんのことをどう思っていたのか、ということです。彼女にとって、エイズの患者さんは、ただの「統計」でしかなかったのでしょうか。 私はどうしてもそうは思えないのです。彼女には、ANCの幹部の夫も子ども四人もいました。彼女ほどの苦労人がエイズで苦しむ女性や子どもたちをただの「統計」として考えていたとは思えないのです。 だったら、彼女の頑迷なまでのムベキ元大統領への忠誠が、彼女の医師としての判断を狂わせていたのでしょうか。 私のこの疑問はまだまだ解決していません。 南アのメディアは、12月22日に行われる彼女のお葬式のことで待ち切りです。 「死者に鞭は打たない」とは、アフリカの価値観の中でも大きな位置を占めます。彼女への批判は日を経つごとにまったく聞こえなくなりました。 しかし、私は、彼女の保健省の大臣としてしたこのエイズ治療に関わる重大な失策は、やはりきちんと整理して、その結果を、亡くなった多くの人々とその家族に説明責任を果たすべきだと思っているのです。 彼女が女性や子どもたちのために活動した輝かしい業績ももちろんあるのです。だからこそ、彼女のこのエイズ政策が残念でなりませんでした。 ******************* さて、今年もこの長〜い記事を毎回お読みいただきありがとうございました。皆さま、よいお年をお迎えくださいね。来年もよろしくお願いします。 吉村峰子 お知らせ 空色庵更新してます。こちらもどうぞ! ■
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by yoshimuramineko
| 2009-12-22 16:12
| アフリカの政治
英語や日本語を長年教えてきて、私はいつも私の生徒さんたちに伝えたいことがあります。
それは、 「習った言葉は使おうね!」 ということです。 特に、いま、ダーバンで思いがけずにも、日本人の生徒さんに英語を教える機会に恵まれるようになってから、英語を使って仕事や生活をしている生徒さんたちには、ぜひ、学んだ英語を使って、南アの社会のいろいろな面に触れて欲しいと思っています。 さて、「学びのピラミッド」というものをご存知でしょうか。 これは、参加型学習の一つの形態である、協同学習(Cooperative Learning)の概念を紹介するときに用いるものです。このピラミッドを作成するための調査の対象になったのは、1985〜1990年ごろの米国人学生でしたが、いまだに十分世界でも通用する概念だと思います。 この「学びのピラミッド」というのは、教師にはちょっと「ぎく!」、「びく!」というものなのです。 ふふふ、何故かというと、学習者が何かを学ぶ時、「どのような教え方」を受けたか、ということが、その学んだ内容をどのくらい保持できるかに差がでる、ということをきっぱりと提示してくれるからです。 そうです、どんなに素晴らしい内容であったとしても、ただただ先生が生徒の前で、延々と講義をするだけでは、何と、恐ろしいことに、その内容は5%としか保持してもらえない、ということなのです。 つまり、「学びのピラミッド」とは、学習者が学んだ内容を保持するためには、どんな学び方が有効であるか、ということを示唆するものなのです。 このピラミッドをもう少し詳しく、具体的に解説しましょう。 あなたがあるファースト・フード店に採用された数人の新人アルバイトの一人、と想定しましょう。新人教育って、結構なストレスなんですよね。される方もする方も。でも、こんなにバッチリと、「学びの形態」で違いがある、ということは、講習をする側としては知っておかなくてはいけません。恐ろしいですよ、これを無視していたら! ?講義。これは、ファースト・フードのお店の店長が、新人アルバイトを集めて、このお店の講義をします。お店のモットーとか、手順とかを口頭で説明します。残念ながら、この講義だけでは、あなたのお仕事の理解は何とたったの5%! ?読み。これは、ここではマニュアルでしょう。接待業のなんたるか、なども含まれるかもしれません。ここでの理解度もあまり高くないです。10%。 ?視聴覚教材。ここでビデオかDVDの登場です。でも、不思議ですね、視覚教材を使ったとしても、ここでのあなたの理解度は20%にとどまっています。 ?デモンストレーション。はい、ちょっと先輩が出てきて、実際にどうやってオーダーを取ったらいいかなどを見せてくれます。ここで理解度は30%まで上がります。 ?グループディスカション。これまで学んだことを新人さん全員で話しあう、ということがとっても大切なのです。自分一人で学ぶのではなくて、自分が見落としていることなどが、他の人の意見で気がつくこともあるのです。ここであなたの理解は半分の50%まで進みます。 ?模擬練習。今までの知識を全部つぎ込んで、お店の終わったあとにでも、お互いがお客や販売員になって、練習をすると、なんと、あなたの理解は75%まで上がります。 ?実践。そうです、胸に「見習い」という札をつけて、実際にカウンターの前に立って、お客さま相手にオーダーを取る実践をすることで、理解度は90%にまでなるのです。 これを読んできて、お分かりいただけると思うのですが、?〜?の各段階を経てこそ、研修全体は、きちんと形づけられる、ということです。でも、もしも教える方法が、?の読み、だけで終わっているとしたら、センセイ方、反省が必要ですよ〜! 英語教育でこれをどうすればいいか、は、どうぞ Bell works までお問い合わせを!協同学習のことも含んだいろいろなワークショップをされています。 さて、話は元に戻って、私のダーバンでの英語の生徒さん。私はこのプロセスを言葉の勉強すべてに取り入れているわけではないのですが、カウンセリング・ラーニング、という手法で、生徒さんたちが実際に興味のある内容のダイアローグを作成し、それを「セクター・アナリシス」という画期的な文法を使って、皆さんに説明していきます。 で、ここはダーバンですから、生徒さんは、そうしようと思えば、英語を使う機会はたくさんあるわけです。が、正直言って、英語を使うのは極力少なくしよう、と思えばそれはそれで可能です。 でも、せっかく私の元で英語を学んでくれているので、彼女たちに南ア人の友人に以前から頼まれていた、「お寿司の作り方」を教えてもらうことにしました。 実は、ダーバンでもこの頃、お寿司は大人気。スーパーなどでも、買えることは買えるのです。でも、この物価が比較的安い南アであるのにも関わらず、結構なお値段なのです。しかも、その中身は、決まって、まぐろとノルウェイ・サーモン。よくて、何らかの白身のお魚が入っているのがせいぜいです。 お寿司と言えば、特に、海苔まきは今の日本ではとっても庶民的な食べモノで、卵やカンピョウの海苔まきをぜひ、南ア人にも紹介したいと思ったのでした。 当日、生徒さんのそれぞれの子どもたち(南アはもう夏休みに入りました!)も集まって、たいそうな賑わいになりました。 今回は、生徒さん一人ひとりが海苔まきの中に巻く“中身”を持参して、それを南ア人に教える、という計画を立てました。 その中身もいろいろ揃いましたよ〜。 当然とも言えますが、南ア人の子どもたちに大受けだったのが、ササミフライ。その他、エビのてんぷら、カンピョウ、卵焼き、スモークサーモン、韓国風の味つけ牛肉、アボカド、ツナマヨ、たくわん、などなど。全部、地元で調達できるものばかりです。カンピョウ以外は。 南ア人も、「生のお魚だけじゃないのね!」と大喜びでした。 そして、お寿司を実際に巻くレッスンもにぎやかに進みました。でも、どうしても中身を入れすぎて、爆発してしまうものもあって、これはやはり何回も試しつつ、自分の腕前をあげるしかないようで……。 「学びのピラミッド」の頂点は、実践です。この日の皆さん、英語に関しては準備していたようには進まなかったようですが、「カンピョウって何?」に絶句したりしながらも、笑い声がたくさんのお寿司レッスンでした。 外国語を学ぶことは、自分の母語以外の言葉を話す人とコミュニケーションを取ろう、とすることです。そして、その学びのプロセスは延々と続けることが大切です。こと、語学に関しては、あきらめない、コツコツ続ける、そして実践の機会のある場合は、進んでそれを利用することが大切です。 さて、みなさん、もしも英語を学んでいたら、「カンピョウって何?」の質問に英語で答えてみましょうね! お知らせ この cafeglobe の連載とはちょっと別の切り口で、もう一つのコラムを書き始めています。 書き手仲間の集まったブログ村、空色庵と申します。cafeglobe でもお馴染みの神宮寺愛ちゃん、渡辺葉ちゃんたち、世界に散らばる頼もしき私の妹たちと立ちあげました。どうぞ、お立ち寄りくださいね。 ■
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by yoshimuramineko
| 2009-12-15 14:12
| 日本語教育&英語教育
「文化」と「伝統」。
「この二つの概念の元では、どんな意見も潰されてしまう。でも、言いたいことは言わせてもらいます、法の判断を仰ぎましょう!」 と、南アフリカの動物保護団体のひとつ、 Animal Rights Africaが、南アの最大の黒人部族の王様を裁判所に訴えました。 これは、ズール族が伝統行事である「収穫祭」の一環として行う、雄牛の犠牲祭を、「野蛮で、時代遅れの動物の権利を脅かしている行為である」として、これを中止させるべく、南アの裁判所にこの行事を取り仕切る最高責任者であるズールの王様を訴えたのです。 この“行事”は、ズールの伝統的な儀式に則り、数十人の戦士たちが、素手で荒れ狂う牛を殺す、というものです。これは、この行為によって、雄牛の力が王様に乗り移り、王の力をより強力なものにする、と信じられています。 さて、この問題、まずは、この南アフリカ共和国で、大統領もいるというのに、なんで“王様”も存在しているのか、というところの説明から始めましょう。 実は、南アフリカには選挙で選ばれた大統領や国会議員の他に、国が認めた伝統的な首長というリーダーたちが存在します。この一人が今回、訴えられたズール族の王様 Goodwill Zwelithini kaBhekuzulu (1948年7月14日生まれ)です。 このズール王国とは、いってみれば、南アには、日本の皇室が複数存在する、と言えば理解しやすいでしょうか。もちろん国が認めているため、皇室運営に係る費用も国家が持ちます。王族たちの役割は日本の皇室と同じよう、政治に関わらずに象徴的存在である、と法律で決められています。 Zwelithini王はズール王国8代目の王で、お妃が現在6名、子どもは27名(2003年現在)を超えます。彼は、観光誘致や南アの最大の問題の一つであるHIV教育の普及に力を入れています。 南ア初の全人種が参加した1994年の総選挙時、当時、ズール族が圧倒的に支持していた、政党、Inkatha Freedom Party(IFP)は、ズール王国の自治権と統治権を認めるよう主張し、それを認めようとしない南アの最大黒人政党 African National Congress (ANC)と争っていました。当初、IFPは、1994年の選挙の政党登録も最後まで躊躇していたほどだったのです。実は、IFPはこの総選挙さえ、実現するのを望んではいなかったそうです。 ところが、白人のアパルトヘイト政権の終焉も確実となり、1994年の選挙が避けられない事態になった段階で、IFPも政党として登録し、2003年までこのダーバンを擁するクワズールナタール州の第一政党としてその存在をアピールしました。現在は、ANCがクワズールナタール州の第一政党になっています。 ちなみに、元南ア大統領、ネルソン・マンデラ氏やターボ・ムベキ氏は、ズール族ではなく、コサ族出身です。現在の第四代南ア大統領、ジェイコブ・ズマ氏が初めてのズール族出身の大統領です。 さて、この裁判、クワズールナタール州の高等裁判所で出された判決は、「雄牛の儀式を認める」というものでした。 裁判官は、白人系南ア人で、彼によると、証拠として提出された大学教授の「雄牛の死は短時間で行われており、流血もなく、痛みもない」という証言に満足した、ということです。 私はこの報道を、かなり注意を払って追っていたのですが、双方の言い分にはかなりの隔たりがありました。 まず、Animal Rights Africaの主張によると、雄牛は、睾丸を縛られ、舌を引き抜かれ、喉には砂を流し込まれ……と、まさに本当だったら、これは残虐だなぁ、と思わざるを得ませんでした。でも、これはあくまでも私個人の感覚です。 ズール王族の反論は、まったく逆で、雄牛はできるだけ短期間に殺され、痛みもそう感じない、というのです。が、裁判所の判決が出た翌日のこの儀式では、報道陣は一切シャットアウトされ、当日どのように雄牛が殺されたか、という映像は一切公開されませんでした。もちろん、写真もまだ出てきていません。報道陣にはかなり厳しい取材制限が敷かれたようです。 さてさて、ここからが問題なのです。 アフリカに住む日本人として、私はこの問題をどう捉えるか。 正直言って、これはとっても難しい問題だと思います。王様も記者会見で言っているように、「どうして、他の文化の人間が私たちの文化にいちゃもんをつけるのか」という根本的な疑問があります。これは、日本の捕鯨についての外国からの意見についても同じことがあると思います。 ただ、アフリカの近年の歴史は、白人がやってきて、自分たちの土地を勝手に分割して民族を分断させ、人種差別もして、というとんでもない理不尽を何百年も強いられてきたわけで、彼らはいま、文化的な習慣を自分たち部族の人間にあれこれ言われることに、かなり過激に反応します。当然のことと言えば当然のことなのですが。 ところが、各文化に残る、「悪しき習慣」というのもあるではないですか。 例えば、女性の権利の蹂躙だったり、家を重んじるばかりに犠牲を強いる家長制度だったり、といったものは、私は、がしがし修正していけばいい、と思っています。 でも、「お前のしていることは時代遅れだから改めろ」と、上からの目線で他の文化に生きる人たちにお説教しても、これはまったく受け入れてもらえないです。 これは、もしも変化が必要なのであれば、内部にいる、ズールの人たちが、「やっぱり野蛮だから、儀式は残すにしても、もっと素早く雄牛が死ぬような方法を考えよう」とか、「もうこの行事はしなくてもいいのでは」といった声を上げるのを待つ必要があるのではないか、と思います。 また、この儀式を年に一回の儀式として大切にそのまま保存したい、という意見が出てもこれはまたこれで、外にいる人間はその意見を尊重する必要があるのかもしれません。 ちなみに、この問題がメディアで取り上げられていた時に、ズール族の反応におもしろいものがありました。 「私たちにとって、海で漁をする人たちが、魚を水からあげて、彼らを窒息させるのは、見ていられないくらい残酷なことです。それに比べれば、雄牛の儀式は私たちの伝統的儀式で、どれだけ美しい様式美があることか」 う〜ん、文化的背景が違えば、人の捉える「残酷さ」もこれだけ違うのですよね。 ■
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by yoshimuramineko
| 2009-12-07 18:12
| アフリカの政治
映画『おくりびと』は、『Departures』というタイトルで、ここダーバンでも三週間ほど上映されていました。
せっかくの日本映画の上映ですし、日本大使館からもお知らせがメールで届いたりしたので、興味のありそうな南ア人の友人に声をかけて見に行ってきました。 映画はさすがにアカデミー賞を受賞しただけあって、とっても素敵でした。東北の風景もきれいだったし、登場する役者さんたちも山崎努さんや本木雅弘さんがよかったです。広末涼子さんは、あんなに大人の演技をする女優さんに成長していたのですね。 さて、この映画を一緒に見にいった友人は、ダーバンで私が一番親しくしている二人でした。この二人の内の一人は英国出身のキャシー。 彼女との出会いもとっても運命的なのです。 キャシーは数年前に20年来のパートナーを病気で亡くした後、自分の長年の夢であった日本へ旅行しよう、と思いたちました。そこで、いろいろ旅行会社を調べ、旅の手配を整えました。が、実際に日本に行く前に、もっと日本人のこと、日本の文化のことを知りたい、と思い、ダーバン在住の日本人とどうやって知り合いになれるかを探し始めました。 ところが、ダーバンには日本関連のそういった施設はありません。大使館はプレトリア、領事館はケープタウンにあるものの、ダーバンには日本食レストランが一軒あるだけで、日本の文化を紹介するような施設も図書館も何もないのです。 そんな時、彼女が目にしたのが、私のことを紹介する新聞記事でした。 それは、私が出版した>南アの元大統領ネルソン・マンデラ氏の子ども向け本から出た利益を版元のすずき出版さんが寄付してくださり、何年かかけてその寄付を貯めて、貧しい地域にある学校に運動場の遊具を寄付したことを報道した記事だったのです。 彼女は私の名前を電話帳で調べ、電話をかけてきてくれました。最初はダーバンのショッピングセンターのカフェでの数時間のおしゃべり、そして、家に呼ばれ、呼び返され、というお付き合いが始まり現在に至ります。今では彼女は、我が家のもっとも親しい友人の一人、というより家族のような関係になっています。私の妹一家も大変お世話になっていて、彼女は子どもたちにとっても、“ダーバンのおばあちゃん”という存在です。 実は、キャシーは生前の私の母とも大変親しくしてくれていました。亡くなる直前には、母はキャシーと一緒に一日楽しく過ごしたこともありました。英語はあまり分からなかった母ですが、キャシーとだったら、二人きりでも全く問題はなかったようです。 そんなキャシーは、もちろん、私たちが母を亡くしたことを大変気遣ってくれていて、いろいろな面で私たちを支えてくれています。 そのキャシーが、しくしく、しくしくと、映画『おくりびと』を見ながら泣いていました。 実は、キャシーはとっても優しい女性なのですが、彼女がめそめそと泣いているのはあまり見たことはありません。彼女は自分の人生でも、かなり厳しく辛いことを経験してきている女性です。こんなに子どもが好きなのに、自分の二人の子どもは生まれてすぐ病気で亡くなっているのです。 彼女は近所の孤児院にも毎週二回、ボランティアに行くことを欠かしません。南アの孤児院ですから、多くの子どもたちはエイズにも罹っています。また、彼らがこれまでに経験してきた過去なども、精神的にかなり強くないと積極的に関わり、そして彼らを理解していくことは簡単なことではないのです。 そんな優しいながらも、筋金入りの強さを持つキャシー。その彼女がしくしく、しくしく、と映画を見ている間中、泣いていたのです。 映画が終わった後、彼女に聞きました。彼女にとって、この日本の映画のどこがそんなに悲しかったのか、と。 「映画の間中、私が考えていたのは、あなたたちのお母さんと、あなたたちのことだったのよ。こんな素晴らしい死者をおくる習慣を持っている文化からきたあなたたちが、自分の母親をこういうふうに送ってあげられなかった、ということはどんなに辛かっただろうか、とね、考えていたら、涙がとまらなくなっちゃったのよ。それに、あなたたちのお母さんだって、自分がまさか南アでこんなに突然に亡くなるとは思ってもいなかったでしょう。その運命が悲しくて……」 実は私もこの映画を見ながら、こちらでの母の葬儀のことや、日本で母が同じような病気で倒れたら、まだ生きているのではないか、などと、いろいろなことを考えずにはいられませんでした。 特に、『おくりびと』の中で厳粛に行われている死者を送る、という行為と、それを遂行する納棺師という職業に衝撃を受けていました。 私はこの映画を見るまで、日本にこういった職業があることさえ知りませんでした。ですから、母を納棺してくれた、こちらでは Undertaker と呼ばれる人たちの作法などを、評価する基準さえ持っていなかったのです。これに関しては、母に平謝りするしかありません。 母が納棺されるための洋服に着替える時も、私たちは席をはずしました。映画では、あんなに見事に遺族の前で儀式のように着替えさせてもらっていたというのに。 南アフリカに来る、という選択は、母にとってこういう最期をもたらしました。 母が満足していたかどうかは、いまとなってはそれを確かめることはできません。でも、母の死から何カ月も経ってから、こういう日本の映画がダーバンに来て、それを南アの親しい友人たちと一緒に見て、その友人たちが母のため、私たち姉妹のために、涙を流して母の死を悼んでくれた、ということは、私にとって、とっても大きな節目となりました。 キャシーの泣いた訳を聞いたショウコ、姪のリナも、「私たちも同じことを考えていたよ。おばあちゃんに日本式のお別れをしてあげられなかったね。ごめんね、おばあちゃん」と言っていました。 さて、こんなことを思い出しながら、「自分はどうおくってもらいたいのだろう」と改めて考え込んでしまいました。 正直なことを言うと、私はあまり様式にはこだわらないので、息を引き取る場所が南アであっても、どこであっても、自分の大切な人たちに手を握ってもらって、元気?に「ばいばい!」と終わりになれば、それで十分だなぁ、と思います。 これは、やはり、私はアフリカでの生活が日本のそれよりもしっくりと馴染んできている証なのかもしれませんね。 彼女の亡くなったパートナーは芸術家でした。彼の作品の中の 彼女の一番のお気に入りの猫の彫刻と一緒に。 お知らせ この cafeglobe の連載とはちょっと別の切り口で、もう一つのコラムを書き始めています。 書き手仲間の集まったブログ村、空色庵と申します。cafeglobe でもお馴染みの神宮寺愛ちゃん、渡辺葉ちゃんたち、世界に散らばる頼もしき私の妹たちと立ちあげました。どうぞ、お立ち寄りくださいね。 ■
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by yoshimuramineko
| 2009-12-01 12:12
| 今月の読書と映画
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