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皆さんにご心配をいただいたダーバンで起きた日本人観光客が巻き込まれたバス事故のその後のご報告です。
2008年2月27日、最後まで残っていらした4名の患者さんを無事、日本へ見送りました。 私は事故2日後から医療通訳者としてお手伝いをさせていただいたのですが、二週間を超える毎日の病院通いで、皆さんとすっかり仲良くなってしまいました。 遠いアフリカの地で、こんな大きな事故に遭う、ということはどんなに不安だったかと思います。中でもお二人の方は大きな手術も避けられない状態でした。 が、皆さん、全員が前向きに治療、リハビリに向き合ってくださいました。病院の南ア人スタッフにもびっくりされるほど皆さんが明るく毎日の病院生活を乗り切りました。入院生活の後半では、多くの方がこちらの現地語であるズールー語も学ぼうとされて、本当に模範的な患者さんたちでした。 まだ顔には事故のあとがありありと……。 でも、とっても元気な患者さんたち でも、南アの病院は、日本の病院とはいろいろな面で違いがあります。皆さんきっと、かなり戸惑われたはずです。 まず、最初のうちはどんな治療、ケアについてでも、決まって質問されるのは、 「誰がこの費用を払うのか?」でした。 南アは日本のように公的な医療保険がないので、個人的に医療保険に入る必要があります。大人2人と18歳の子ども、13歳の子ども2人の合計4名の我が家の場合、月額の医療保険料は日本円にして約3万円です。これは、ホスピタルプランといって、万が一の入院治療のときは全額が保障される、というものです。でも、この費用は南アの一般的な月収から考えるとかなり高額で、こういった保険に加入できない人がたくさんいます。 保険に加入していなければ、今回、事故の被害に会われた方々が入院した病院に入るのはまず不可能です。こういった私立の病院での入院加療は非常に高額なのです。 というわけなので、今回、皆さんは、 この、「誰が払うの?」を何回も聞かれるはめになったのでした。 そして、ややこしいのが、南アの病院での支払いです。実は、南アの私立の病院では、医者の診察代、手術代などは、病院の施設使用料とは別建てで請求がくるのです。病院に支払う項目の中には、施設使用用、看護の費用、食費などが含まれています。が、医師や理学療法師への料金や、治療に必要な器具などはまったく別なのです。 個人事業者としての医師が、私立の病院の建物を利用して、自分の担当の患者を診る、とでも言えばその雰囲気が伝わるのかもしれません。 ただ、通訳泣かせだったのは、それぞれの患者さんについた各医師の診察の時間です。そもそも南アは朝が早い。学校の授業だって、朝7時半からです。それにしても、今回の医師たちの中には、朝、6時半くらいに診察に回る人がいたのでした。手術の前に、回診したいのは重々理解できるのですが、それにしても、早すぎる! さて、帰国の前日、一人の患者さんからこんな素敵な感謝のお便りを渡されました。 〜〜〜〜〜〜〜〜 ……(略)日本での日々が毎日追われるように過ぎていって、自分を可愛がることが出来ず、結局他の人へも愛情が注げなくなるようで苦しくなっていました。でも、南アで遭った峰子さんや他の日本人の方々や、現地の方々と触れ合うと、気持ちが楽になって、細かいことが気にならなくなり、他の人へも優しくできるようになってきました。……10年以上振りに本来の自分自身に帰れたような、開放されたような気分を味わいました。(略) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 私は彼女の文章の中にある、「10年以上前の自分を取り戻せた」という表現に感激しました。 10年前の自分をしっかり肯定して、その自分が好きな“10年前の自分”に戻れたことを、このあってはならない事故を恨むのではなく、そのおかげで戻れた、とする潔さ。素晴らしい心構えです。 また、難しい手術の説明を受けても、堂々と、その現実にひるむことなく、自分の納得のいくまで質問をされ、そして果敢に手術を受けた方もいらっしゃいました。手術後のリハビリへの取り組みもそれはそれは真剣にされていました。 日本にお孫さんを持つ患者さんのお一人は、廊下に子どもの声がすると、思わずご自分の持ち物の中のお菓子を探してしまうような優しさに溢れていらしゃいました。 そして、ダーバン在住の多くの方が心づくしのお見舞いを携えて何回も足を運んでくださいました。複数の南ア人医療スタッフが、私に、「日本人コミュニティは素晴らしいですね。親戚でもない人たちがこんなに親身に患者さんたちのために動くなんて」と感嘆のため息をもらしていました。 最後に、裏方に徹してくださった、日本の旅行会社のスタッフの誠意のこもった事故の対応の見事さ丁寧さ、そして現地で今回の旅行を手配してくださった南アのツアー会社の担当の宮田さんの、誠心誠意患者さんの立場に立った働きぶりは、私に久しぶりに日本人でいることを誇りに思わせてくれるくらい素晴らしいものでした。 皆様、お疲れ様でした。そして、事故に遭われた皆様、どうぞ、日本でリハビリをしっかり続けてくださいね。皆様がお元気になって、南アを再訪してくださることを心からお待ちしております。 退院の前日、看護スタッフとともに 患者さんと日本人裏方組み 文中の患者さんの写真掲載は許可を得ています。
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by yoshimuramineko
| 2008-02-27 23:02
| アフリカの空のした
ザ・メモリー・キーパース・ドーター (The Memory Keeper’s Daughter) キム・エドワーズ(Kim Edwards)著 誰でも、「あの時、どうしてあんなことをやったんだろう」と、回顧する思い出のひとつやふたつはあると思う。 この本は、まさにこの、「あの時、どうして……」の物語だ。 まず、物語設定は1964年の米国のケンタッキー。私は1958年の生まれだから、この物語のとき、ちょうど小学生になっていた。この本で、この時代、米国でダウン症を持って生まれた子どもたちの多くは、親から離されて専門病院に隔離されていた、という事実を知った。日本はどうだったんだろう。 主人公の医師、デイビッドは産科医ではないが、いろいろな偶然が重なった吹雪の夜、自分たちの初めての子どもを自分で取り上げることになる。超音波などが診察に使われる前の時代のせいなのだろう、彼の妻ノラも自分もノラが双子を妊娠していたことを出産するまで知らなかった。第一子は障がいのない男の子。その数分後に生まれた第二子、フィービーがダウン症だった。 デイビッドには心臓に障がいを持って生まれ、若くして亡くなった妹がいた。家族の中に、先天性の疾患を持つものがいることの、どうしようもない切なさ、苦しさを誰よりも理解している、と考えたデイビッドは、フィービーが生まれたその瞬間に、彼女の存在を自分の妻の前から抹消することを決意した。彼は妻に、「女の子は死産だった」と伝えたのだ。米国では、この時代から、当然のように産婦に麻酔をかけていたことにも驚かされた。最後のいきみのところで意識がないから、自分が生んだ子どもをその場で確認することができない、という驚きの事実。 そのとき、デイビッドの助手をした看護婦は、デイビッドを秘かに慕っていたキャロラインだった。キャロラインは、デイビッドに、フィービーを遠く離れた隔離病院に連れていくよう指示された。キャロラインはデイビッドを慕うが故、彼のこの判断に従ってしまった。だが、その隔離病院の現実を目の前にして、彼女にはフィービーをそこに置いてくることはできなかった。彼女はフィービーを自分の娘として育てることにしたのだ。勤めていた病院も辞め、アパートを引き払い、離れた町でシングルマザーとして。デイビッドに自分たちの居場所を知らせることもなく。 こうして、吹雪の晩に生まれた双子はお互いの存在を知らないまま四半世紀を過ごす。 だが、人間がここまで作為的に人の人生を操作してしまうと、結局、その操作した人生に翻弄されるのは避けられないことなのかもしれない。妻を守るため、という一心でフィービーをノラから遠ざけたデイビッドは、このあまりにも巨大な秘密を自分で抱えるがため、ノラと自分の間にどうしても超えることのできない壁を作り出してしまった。 ノラとデイビッドは毎日、毎日、お互いから離れていくようになる。その乖離は、双子のもう一人ポール、にも影響を及ぼす。彼は両親の見えない”距離“に苦しみ、孤独感を深めていく。 ついにデイビッドとノラは離婚し、デイビッドはその数年後に亡くなる。その後、ノラとポールは、フィービーの存在を知り、四半世紀を経てフィービーのこれまでのシンプルでありながら、充足したこれまでの人生を知ることになる。キャロラインとフィービーは、大変な日々の苦労を抱えながらも、”シアワセ“な人生を送っていたのだ。アル、というキャロラインのしたことをすべて受け入れてくれた夫、フィービーにとっては育ての父にも見守られて。 確かに、多くの場合、障がいを持った子どもを授かる、ということは突然やってくるのかもしれない。出産前にかなりのことが分かるようになった現在でさえ、出産して初めて、思いもしなかったわが子の状態を知る人たちもいるだろう。 私も、自分が何年かの不妊治療のあとに授かった上の息子を妊娠中、自分自身に問いただしたことがあった。自分の子どもにどんな障がいがあっても、自分はこの子どもを受け入れる心の用意が整っているか、という当時30代前半だった私の自分自身への問いだ。 私はそのとき、 「いいよ、どんな状態でもいいよ。わたしたちのところにおいで。一緒に楽しく生きて行こうね」と、心の底から思えたのだ。 この物語の投げかけるものは決して小さくない。人の存在を受け入れる、ということにかかってくる大きな責任。だが、もしも、「運命」というものがあるのなら、私たちはそれから逃げられないのかもしれない。そうだとしたら、目の前にある状況が、どんなに困難なことに思えても、目をつむって“ど〜ん“と引き受ける、というのも案外一番、理にかなったことなのかもしれない。「先の心配をいまからしても仕方がない」と、思えるかどうかも大きな要素だ。 妻のために、よかれ、と思ってしたことで、自分の人生をまったく思いもよらない方向へ導いてしまったデイビッド。悲しい、切ない彼の選択に一番苦しめられたのは彼自身、という事実が重くのしかかる。 ■
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by yoshimuramineko
| 2008-02-18 11:02
| 今月の読書と映画
「南アフリカ・ダーバン」という地名が日本のメディアで流れることはそう頻繁にはありません。
が、2008年2月7日、ダーバンで起こった日本人観光客のバスの事故は、日本でも大きなニュースとなりました。NHKの衛星放送でもダーバンの街中の映像とともに速報が流れていました。 でも、私が聞いたニュースではなかなかり当日の現地の状況はわかりませんでした。そこで、今回は、現地の背景を少々お伝えしましょう。 当日、ダーバン地域は2週間ほど続いた晴天が嘘のような突然の悪天候でした。この“突然の悪天候”というのが曲者だったのです。残念なことですが、南アでは、こういった突然の悪天候時、どうやって事故を防いだらいいのか、という意識がないとしか思えない運転をする人が多いのです。 それとも、「雨が降れば路面がすべる。路面がすべるのだから、減速する」と言った、1たす1は2、とでも言うようなごくあたりまえの考え方が、共通の認識になっていない、と言えばいいのでしょうか。大雨の中、しぶきをあげて、晴天時と同じように、140キロ近くのスピードでビュンビュン走り去る車が多いのです。南アは高速道路網がかなり整っているので、これもまた危険な要素に追い討ちをかけます。 それにしても、この日は特に異常でした。私が毎日出勤に使用する高速道路のひとつ、N2(事故のあった高速道路に連結されている)でも、たった2キロ半近くの距離の間になんと6件もの事故が起こっていたのです。これは、あきらかに通常の“悪天候での事故数”をも超えている事態でした。視界の悪さも限界に達していたのでしょう。 事故は現時時間の午前11時半ころ起こりました。 午後になってから知人の一報で事故を知った私は、とにかく在南ア・日本大使館の領事に電話を入れました。何かお手伝いできることでもあれば、と思ったのです。結果的には、事故の2日後から私が医療通訳として正式にお手伝いさせていただくことになったのですが、事故発生当時はダーバン在住の日本人の方々が献身的に皆さんをサポートしてくださったようです。 ただ、話は横にそれますが、私が領事にお電話したとき、私の頭に浮かんだのは、通訳でも何でもなく、皆さんのお腹の心配でした。 「しっかりご飯を食べて、お腹を落ち着けて、元気を出してもらおう!」 と、私は何か大きな事故が起きるたびに考えます。 冷静になるためには、お腹にしっかり力を入れる--- これは、私が常日ごろ母として、自分の子どもたちにも伝えていることです。実は、私の年下の大親友、神宮寺愛ちゃんもマウイより、Cafe Globe の彼女の公式ブログ「おへそに手をあてて」でしっかりお腹に力を入れることの大切さを発信しています。 そして、2日後、事故に会われた方々におにぎりを差し入れしたところ、多くの方が、 「梅干のおにぎりを食べて、心が落ち着きました」 「ご飯に塩と海苔の味がこんなにおいしかったなんて」 「おにぎりで元気がでました」 と喜んでくださいました。 事故は奇跡的に大惨事を免れました。事故のあと、すぐ現場に入った旅行会社の現地職員から直接聞いた話でも、バスは崖を40メートルに渡って滑り落ちたのでした。地元のメディアも、「一人の死人も出なかったのは奇跡だ」と繰り返していました。 事故の翌日、地元紙に掲載された写真 しかも、事故が起きたのは、実は私の家のすぐ近くだったのです。A Valley of Thousand Hills―千の丘の谷、と呼ばれるこの一帯は急な傾斜の丘陵に沿って高速道路が作られています。その丘のかなり高いところから、前方にスリップ事故で転倒していた別の車を避けられずにコントロールを失って崖を滑り落ちたバス。でも、地元の人々が何よりも絶賛したのは、その事故に会った際の日本人の皆さんの対応の見事さでした。 40名を超える日本人全員が、誰一人としてパニックに陥ることなく、同乗していた主催側の添乗員の冷静な判断に従い、かなり迅速に冷静にそして的確にその場が収拾されたのです。 2月11日現在、まだ5名の方がダーバンの地元病院に入院されていますが、皆さん順調に回復されています。自分の乗っているバスのブレーキが効かずに崖を滑り落ちる、という状況がどれだけの恐怖の体験だったのか……。想像に難くありません。しかし、皆さんは、慣れない南アフリカでの入院生活にも不平不満を言うわけでもなく、笑顔で感謝を口にされ、前向きに行動されています。本当に頭が下がります。 皆さんの一日も早い回復を心よりお祈りしています。私は、明日もまた大きめのおにぎりをたくさん持って、皆さんのお見舞いに行ってきます。 ■
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by yoshimuramineko
| 2008-02-11 23:02
| アフリカの空のした
2008年2月3日。ダーバンは日中の気温が記録的な36度を超えました。その中での「鬼は外、福は内!」は、と〜っても季節はずれ。しかも、“節分”はそもそも春の訪れを祝うもの、とすると、今、真夏のダーバンで“節分”をするのはまったくのお門違い……。
でも、アフリカに住んでいると、とかく日本の文化・習慣から遠くなってしまいます。子どもたちに日本の習慣も教えていきたい私としては、ちょっと無理をしてでも、これまでにもアフリカの暮らしの中に日本の季節の行事を取り入れてきました。 赤鬼さんと青鬼さんと…… それに、現在の私の仕事は、南アフリカ人に日本語、日本文化を教えること。元々の季節の行事の実感は伝わらなくても、自分の年の数の大豆を食べたり、「鬼は外、福は内!」を連呼しながら鬼に大豆を投げつけたり、というあの節分の雰囲気は子どもたちにも日本語の生徒さんたちにも味わって欲しかったのでした。 納豆になるはずだった大豆を炒って、 皆で「オニはソト〜、フクはウチ〜!」 でも、今日のお客様、なんと70名!近くにもなってしまいました。自分で招待したのは20組くらいのはずだったのに、「友達を連れてきてもいいですか?」に、「どうぞ、どうぞ〜!」と何回かは返事した記憶あり……。で、当日、大変なことになってしまいました。でも、用意したお料理も何とか足りて一安心。ご飯類だけでも二升ほどお米を炊いておいたのが勝因でしたね! メニューの“おにぎり”類は、何と、日本に研修に行っていた南ア人からのたってのリクエストでした。「日本食で何が恋しい?」の質問に、迷わず、「ツナマヨのおにぎり!」と数名が答えたのでした。う〜ん、そうか、と唸りました。確かに、日本料理レストランでは、ツナマヨおにぎりはメニューにないものね。 【本日のメニュー】 スモークサーモン、キュウリ、卵の巻き寿司 ツナマヨ、キュウリ、卵の巻き寿司 ツナマヨおにぎり おかかおにぎり チキンの照り焼き(12キロ!) イカのお好み焼き サラダ 和風ゴマドレッシング 大根と鳥の煮込み デザート(お客様の持ち寄り) インド風デザート二種 フラン(プリンの大型のもの) チェリータルト チョコレートケーキ インドネシアのライスケーキ 実は、南アの社会はまだまだ閉鎖的。特にダーバンは人種の住み分け状態がいまだに続いています。ですので、私たちの家に来ることで、初めて違う文化の人たちとプライベートで一緒になった、なんて言う人も最初は多かったのです。が、だんだんとそういったことにも慣れてきて、気軽に「友達も連れてきていい?」が増えてきたんだなぁ、とつくづく思います。 今回は、ダーバン在住の日本人の方も何名か参加してくださいました。ダーバンに着いてまだ日の浅い方々も数名。日本の節分とはちょっと違うダーバンの節分を楽しんでいただいたと思います。 それにしても、“節分”で思い出すのは、もう現在は13歳と12歳になった娘のショウコと甥のアジーノの二人。10年前、彼らの大叔父が亡くなったとき、二人は3歳と2歳でした。 大叔父が亡くなったのが、2月の7日。節分からお葬式までの間がちょうど一週間前後。このビミョ〜な時間の経過が問題だったのです。彼らは、シーンとした厳かな祭壇の前に連れて行かれたとき、こともあろうことに、目の前のお線香をいきなりむんずとつかんで、思いっきり、 「オオオニイイはソットォォ!フクウはウチイイイ!」 と叫んだのでした。 厳かな斎場が一瞬の間をおいて、大爆笑する中で、夫と私は二人を抱きかかえて、脱兎のごとく廊下に飛び出しました。 お葬式に連れて行かれた幼い子どもが、そのあどけない行いで、生と死をも含んだ命の繋がりを回りの大人たちに示してくれることの重要性を幾編かの文学で読んだ覚えがあります。でも、この「オオオニイイはソットォォ!」は、いくらなんでもハチャメチャだなぁ、と私は満面の笑顔を浮かべている二入を見ながら、うな垂れたのでした。 現在のショウコとアジーノ
本人たちにはこの記憶はないそうで…… ■
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by yoshimuramineko
| 2008-02-04 05:02
| アフリカの空のした
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