カテゴリ
全体 日本語教育&英語教育 HIV/Aids アフリカの空のした 吉村家アフリカを行く! 吉村家の食卓 ブログ 吉村家、アフリカを離れると……! アフリカの政治 萱葺きの家から 今月の読書と映画 アフリカの学校と子どもたち この人が素晴らしい 番外編 昭和ヒトケタ・アフリカで暮らす プロフィール 2010年ワールドカップ アフリカで日本食ビジネス スポーツの世界 未分類 以前の記事
2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ジーンと私が出会ったのは、HIV/Aidsの患者さんが集まるドリームセンターでした。
彼女は英国出身の看護師さん。でも、ドリームセンターには看護師として関わっていたわけではありません。 ドリームセンターでの彼女の役割は、患者さんの話を聞くボランティア・カウンセラーでした。穏やかで物腰が柔らかく、そしてどんな時でも笑顔を絶やさないジーン。敬虔なクリスチャンである彼女が、末期の患者さんと一緒に静かなお祈りをしている姿を何回も見かけました。でも、自分自身も看護師なので、訓練の浅いとしか思えないような何名かのドリームセンターのスタッフには少なからぬ不満もあったようです。 先週の金曜日、彼女に声をかけて、とっても楽しいランチをご一緒しました。 実は、ジーンは昨年10月30日、多くの人に尊敬されていた医師であった夫のエドワードをリンパ腫で亡くしているのです。ジーンとエドワードは、お互いが看護学生、医学生であったときにロンドンにある GUYS 病院のクリスチャン学生の集まりで知り合いました。 ジーンもエドワードも、「神様に導かれて、医学の宣教師としてアフリカで働きたい」という希望を10代の頃より持っていたそうです。また、こういった信仰に目覚めたのも、同じく10代の頃、ということも興味深いです。ジーンは、「16歳のお誕生日のころ、神様の声を聞いたの」と嬉しそうに話してくれました。 三十代の彼らが、三人の幼い子供を連れて、現在のイースタンケープ、当時のトランスカイにエドワードが医師として赴任したのは1978年のことでした。この当時、トランスカイは南アフリカ政府が横暴にも制定していた“トライバル・ホームランド”と呼ばれる“独立地域”でした。“トライバル・ホームランド”とは、国際社会から認められた国家ではなく、貧しい地域に黒人を囲いこむために便宜的に南アフリカが制定していた“国家”だったのです。 ジーンは、この当時の暮らしをとっても「楽しかった」と表現してくれました。当時のトランスカイの人たちにとって、エドワードはたった一人の白人医師。その白人医師とその家族を地域の住民は温かく迎え入れてくれたそうです。 子どもたちは地域の豊かな層が通う公立学校に通いました。当時でも、オランダ系農園主の子どもたち、病院の他のフリッピンやアフリカ諸国の医師たちの子どもたち、豊かなビジネスオーナーの子どもたちなどが集う学校だったそうです。 4年間のトランスカイでのこの仕事のあと、エドワードは熱心に請われて、ダーバンの国立大学の医学部の教授に就任しました。エドワードは極めて有能な整形外科医として多くの患者を救い、そして多くの医師を育てたのです。 エドワードが現役の医師時代、それは、それは多くのエピソードがありました。お葬式でもたくさんのエピソードが披露されましたが、一番印象深かったのは、私のダーバンで一番親しい友人の一人である心理学者のサリーから聞いた話です。 実は、ヨハネスブルグやダーバンなど、大都会だけを見ているだけでは南アのことをよく理解していることにはなりません。 南アの国民の大多数を占めるのは田舎に住む黒人の南ア人です。そのため、心ある医療関係者は、交代でヘリコプターに乗り、医師の常駐していない僻地に赴き、医療行為を提供しています。南アの多くの医師は、公立の医療機関で働いていても、個人のクリニックを経営している場合が多いので、こういった医療行為に時間を割くということは、自分の収入を減らしても行う、ということになります。 エドワードはこのヘリコプターで赴く医療行為をするリーダー的存在だったのです。 サリー曰く、彼がすごかったのは、とにかくこういう僻地治療に誰よりも熱心だったこと。しかも、自分で持てるだけの医療器材を持っていってする医療サービスなので、当然のこと、「あれもない、これもない……」という状態になるのだそうです。 多くの整形外科医が、これを理由にこのサービスを嫌がるのですが、エドワードはそんなこと意にも介さず、ヘリコプターが着地するや否や、急設のテントやら学校の部屋に臨時に設けられた“手術室”で一件、一件、休憩することもなく患者さんを診療し、手術をしていったそうです。 脱臼を直し、口唇裂を直し、時には難産のお産も助け、ありとあらゆる外科的手術を引き受けて、多くの人に“ドクターBJ!”と慕われました。 ジーンは、看護婦として妻として、常に彼を支え、三人の子どもを育て、故郷の英国を離れてここ南アで彼を見送りました。 彼女はいま、三人の子どもの住むオーストラリアへの移住を勧められているそうですが、あまり乗り気ではないようです。 「私はここが好き。子どもや孫に頻繁に会えないことはさびしいけれど、できるなら私はここにずっと住んでいたいの」と言いました。 彼らは、「夫を支える妻」という古典的な夫婦の形の理想像なのかもしれません。でも、彼らがいかにお互いをいたわり、頼りにしていたか、が明白で、古典的な夫婦像にありがちな閉そく感や主従関係のような雰囲気はまったくありませんでした。 なによりも、ジーンの穏やかな表情を見ていると、迷いのない生き方を精一杯生きることの充足感、というものを感じます。 私には、ジーンが心から信頼し、頼れる神様も、迷いのない夫婦像といったものもないのですが、この素晴らしい女性が、私を“友人”として大切に思ってくれていることだけでも、なんて素晴らしいことなんだろう、と感激してしまいます。 エドワードが亡くなったあと一人で暮らすジーン。彼女の家は私の家から車で20分くらいのところにあります。これからも折につけ、声をかけ、立ち寄り、といったことをして彼女のそばでうろちょろしたいと思っています。 ジーンの自宅の居間で。後ろのお皿は彼女の趣味の
Plate Painting の作品。全部彼女のお手製!
by yoshimuramineko
| 2009-10-13 16:10
| この人が素晴らしい
|
ファン申請 |
||