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マラウィは、南部アフリカの小さな内陸国。海に面していない代わりに、国土の三分の一を占めるマラウィ湖がある。この豊かな湖のおかげで、マラウィは人口が多い。マラウィをぐるりと囲む国々は、ザンビア、タンザニア、モーザンビーク、そしてジンバブウェ。 私たちは、政府開発援助を実行する機関に勤めていた夫の赴任のため、マラウィの首都リロングウェに3年弱暮らした。私たちのリロングウェでの友人は、外国人が圧倒的に多かった。これは、夫の職業的なつながりの他に、子どもたちの通うインターナショナルスクールで出会う家族が圧倒的に各国外交官、国連職員などが多かったからだ。 そうすると、当時11歳、6歳の我が家の子どもたちのマラウィで付き合う人たちが、いわゆる、ものすごく限られた層になってしまったのだ。実際、私が特に親しくなったのは、駐マラウィ・ドイツ大使と駐マラウィ・ノルウェー大使の二家族。この二人の大使夫人たちとは、今でも仲がいい。だが、ちょっと学校の帰りに寄る友達の家が、超豪華な大使公邸、その他には、国連の高官、またはイタリア系のビジネスを手広く成功させている家族など……。これは小さなアフリカの国の首都に集う人たちゆえのコミュニティだった。 それは悪いことでは決してないのだが、私のなかで、これでは何かが違う、という気持ちが広がっていった。世界でも有数の貧困国となってしまったマラウィに住んでいながら、多くのマラウィ人の抱えるマラウィの現状を、私はまったく自分の子どもたちに見せていなかったのだ。子どもたちが日本に帰ったとき、「マラウィはどんなところなの」という質問に、「マラウィでは豪華な家に住んで、友達は外国人で、長い休みにはザンビアのサファリに行って……」では、お話にならないではないか。 そこで、私は自分の子どもたちに、問答無用でこう言い渡した。 「リロングウェに住む間、月曜の午後は“子どもの家”というところで子どもたちと一緒に遊ぶことになったから。月曜は、他の友達と遊んだり、他の用事をしないからね」 この“子どもの家”とは、マザーテレサの修道会が運営している孤児院のような施設だった。単純にこの施設が“孤児院”と呼べないのは、マラウィの法律では、“孤児”とは子どもに両親ともにいない場合を限定しているから。マザーテレサのシスターたちは、この隙間を埋めるべく奮闘していた。父親がとっくにいなくて、母親がエイズの末期で子どもの養育ができなくても、まだ生きている間は、その子どもは“孤児”とは認めてもらえず、政府の運営する孤児院に収容してもらえない、というケースが多々あったからだ。 生後数日の赤ちゃんから、15歳くらいまでの 子どもたち約100人がここで暮らしていた この子どもの家の子どもたちは、多くがエイズ孤児だった。そして、結核を患っている子もたくさんいた。エイズは空気感染しない。エイズの感染は血液の接触を介する。つまり、エイズとは、性交渉、輸血や注射器での感染、出産時の母子感染、母乳からの感染、といった、注射器からの感染以外はかなり限定される感染病なのだ。 私は自分の子どもが何よりも可愛い。自分の子どもに降りかかる危険は身体を張ってでも阻止したい。だが、“子どもに降りかかる危険”とは何なのだろう。もちろん、交通事故とか、病気などはわかりやすい。でも、私が阻止したい“子どもに降りかかる危険”の中には、「偏った心のあり方」というものも含まれているのだ。 アフリカに住む家族として、アフリカの抱える問題を子どもから見えないようにしてしまうことから引き起こしてしまう、「自分たちには関係ない」という「偏った心のあり方」を自分の子どもに植え付けてしまう行為は、私には許せないものだった。アフリカの問題を身近に見てきた一人として、「無関心」が引き起こすマイナスのエネルギーを自分の子どもには与えたくなかった。 子どもの家に通い始めた当時は、将来、南アフリカに移住するとは思いもしなかった。でも、西アフリカのリベリアで生まれた上の息子、生後3ヶ月でエチオピアに渡った下の娘は、多くのアフリカ人の愛情をたっぷり受けてそれまで育ってきていた。私は、彼らに、アフリカを一過性の場所とは捉えて欲しくなかった。また、大きくなった彼らが、この大陸の人たちのために、感謝の気持ちをもって、何かをお返しして欲しいと思っていた。 子どもの家に定期的に通って子どもたちと遊ぶことには、確かに、エイズには感染しなくても、結核を感染してしまう可能性を含んでいた。夫ともこのことについては話し合った。結論として、血液に触るようなことは絶対にいけない、としっかり教える。そして、万が一結核に感染したとしても、結核は薬で治癒が可能なのだから、結核感染を恐れて、子どもの家に遊ぶに行かせることを躊躇する必要はなし、ということになった。 そもそも、我が家の二人は極めて健康体、めったに風邪も引かない。アフリカ暮らしなので、朝5時には起きて、夜8時には熟睡、という昔の子どものような生活がいいのかもしれない。食事もアフリカゆえ、ほとんどが手作り。添加物摂取も先進国で暮らす子どもたちよりもかなり少ないと思う。彼らは、自己免疫力が強いのだと思う。 そんなこんなで始まった子どもの家通い。子どもたちにとって、「月曜の子どもの家」は、日常の風景となっていった。 ここで私たちが何をしたか。それは、とってもシンプル。ただ遊ぶこと。本を読んだり、ボール投げをしたり。慢性的に人が足りないので、私はオシメを変えたりもしたが、最終的に私は“爪きりおばさん”になった。毎週、子どもたちをひざに抱いて、彼らの長く伸びた爪を、日本の赤ちゃん用爪きりはさみでチッチッチ、と切っていった。大人の数が圧倒的に少ないので、こういった個人的な世話をしてもらうことを子どもたちはとっても喜んでいた。 日本から届いた大型絵本を使って遊ぶ子どもたち。 右端は当時7歳だった娘、ショウコ ある一人の女の子がいた。6歳くらいだったと思う。右手の爪を切ったあと、「左手を見せてごらん」というと、その左手を私から隠す。「???」と思い、そばにいた人に通訳してもらった。そうしたら、なんと、「またアンティに切ってもらいたいから、今度のときまでとっておく」と言うではないか。それを聞いて、私のしていたこのほんの数分の爪きりが、この女の子にとってどんな意味を持つのかがよく理解できた。 私はその子をゆっくり抱き上げて頬ずりをして、「毎週、切ってあげるからね」とささやいた。 自分の子どもたちに、マラウィの現実をしっかり体験させたい、という目的で通いはじめた子どもの家。だが、実は、ここで出会った子どもたちが、私自身の後半人生を変えてしまうとは考えていなかった。
by yoshimuramineko
| 2007-11-26 12:11
| HIV/Aids
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