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先週の日本語教育に関してのコラムに何通もの個人メールをいただきました。
微笑んでしまったのは、皆さんの質問に共通していた、「どうやって3時間も授業をしているのか、教えて欲しい」というご質問です。 確かに、語学の授業はだいたいが1時間。それ以上のぶっ続けの授業は生徒さんの集中力が持ちそうにありません。 でも、それは、やり方次第です。 実際、先週ご紹介したこの若者たちのグループは、毎回、 「あ〜あ、もう終わりか」 と全員、がっかりしてくれるのもありがたいし、可愛らしい。教師冥利につきる、というものです。 さて、『吉村式カウンセリング・ラーニング』での言語の教え方についてお話ししましょう。 実は、これ元々は、Dr, Charles Curran という米国の神学者、言語学者、精神分析医という3つの分野でかなり業績のあったカソリックの神父さまが生み出した言語教育の一つなのです。 手法自体の名前、『カウンセリング・ラーニング』は、彼が精神分析医であったことから、かなり心理学の勉強もバックグラウンドとしてしなくてはいけないことと無関係ではありません。 私がこの手法に出会ったのが、オレゴンの大学時代。さらにニューヨークの大学院で学生をしながら実践を重ね、その後、30年近くかけて今の教授法を完成させてきました。本家本元とはちょっと別の工夫もしているので、あえて、『吉村式カウンセリング・ラーニング式言語の教え方』と呼ばせていただいています。 この手法を実際に教授法として活用している言語講師はかなり限られています。その理由はいろいろあります。 まず、講師側に求められるハードルがかなり高い、ということ。それは、生徒の母語をほぼ完全に近いくらい操れなくてはいけない、ということからもお分かりいただけるでしょうか。つまり、教える言語と生徒の母語のバイリンガルの資質が求められるのです。 また、Dr. Curran は精神分析医でしたので、生徒が陥ってしまう“学びの邪魔をする感情”といったものにも講師は敏感になって、そういう要素を排除すべし、などなど難しいことも言っています。 また、この手法が米国や英国、オーストラリア、といった英語圏であまり効果のある方法、として認識されていないのは、そこに集まってくる生徒たちの母語の種類の多さが原因です。 つまり、多言語の環境では、一人の講師だけでは対応できない状況となり、生徒の母語の分だけ講師を提供したら、これは途方もなくコスト高の教授法となってしまうのです。 でも、例えば日本、例えば南アフリカでは、学ぶ生徒の母語は一種類なのです。そうであれば、バイリンガルの講師が一人いればそれで済むわけです。 この手法の最初の手順を簡単に説明すると、カウンセリング・ラーニングの講師は、生徒たちの“表現したいこと”を生徒たちの母語で聞き出し、それを学びたい言語に置き換える、ということから始めます。 その置き換えた“表現したい内容”を生徒がその場で、デジタルレコーダーなどを使用して録音していきます。 そして、その録音した内容を材料として、そこから文法やら言い回しやらを生徒たちに、生徒の母語で説明していきます。 さて、まあここまではどちらかというと、ステップの初期段階。この先が、どうやって文法などを教えるか、というステップに入ります。 実は、私は教科書に沿って文法を教える、ということをしません。 どうしてでしょう。 教科書に沿って教える、というのは通常のこと、と思われがちですが、私は、それは教師のすることではない、と思っています。 教科書は生徒さんたちが、教師から学んだことを自分で復習する時に、そのガイド、または参考書となればいいと思うのです。 教師とは、教科書では学べないこと、教科書では伝えきれないことを教えてこそ、その存在価値があるのではないでしょうか。以前、日本で2番目のシェアを誇った中学校検定教科書の編集員を務めたこともある私は、教科書の持つ限界、というものを考えざるを得ません。 このカウンセリング・ラーニングという手法は、生徒たちが自分で「こう言いたい」として作成した会話を丁寧に分析していきます。 でも、そこに出ている文法は当然、難しいものも簡単なものも混在しています。でも、それでいいのです。講師は、生徒の反応を見ながら、それぞれの段階で理解できる範囲の文法を、生徒たちが作成した“会話”を元に説明していくのです。 つまり、教師側は、どんな文法が出てきたとしても、臨機応変に、そしてできるだけ分かりやすく説明できることが求められます。これを講師泣かせと取るか、はたまた豪快な職業的なチャレンジと取るかは講師次第です。 ただ、文法の中にはかなり高度な理解力を伴うものもありますから、そういう時は、無理に生徒たちに理解することを要求するのではなく、その前後の意味を説明するだけにとどめておきます。 授業では、作成した会話を繰り返し、繰り返し練習しますので、生徒は以前には理解するのが難しかった内容も、練習を繰り返すことにより、いつの間にか自分たちが理解できている内容が増え、深まっていくことを実感することができるのです。 これは実は教育の考え方で、演繹的な教授法と帰納的な教授法との違いでもあります。 演繹的な教え方とは、ルールを教え、練習を繰り返すことにより、理解を深めさせます。 帰納的な教え方とは、ルールを最初には教えず、いろいろな角度から例をだし、それを比較させることで、その中のある普遍的なルール(言語教育の場合は文法など)に生徒たち自身がたどり着くことを目的とします。 言語教育のゴールは学んだことを実践しなくてはいけません。どちらの方法で学ぶ方が生徒の持続する力になるかは明白です。自分で獲得した学びは息長くその人を支えます。 それに、教科書などで歴然と“普通のこと”のように押しつけられている“文法の順序”にも私は異議あり!なのです。日本では、英語の動詞の時制などを教えるとき、必ず現在形から授業が始まります、でも、それはどうしてでしょう? 英語の現在形、という形は実際の言語表現ではかなり限られた状況でしかその時制を使用しません。だとしたら、これをあまりにも強調するような授業体制そのものが疑問視されてもいいのではないでしょうか。 ただ、生徒が「知りたい」と思う内容ならば、同じことを何回でも繰り返し登場させ説明することが大切です。 授業でカバーした内容を生徒が即理解する、ということを想定するのも無理がありますね。 でも、教科書があれば、突然の“答えに窮する質問”と遭遇するチャンスが極端に少なくなるのです。私などは、「これが嫌なら教師をやめなさい」とまで思うのですが……。 さて、大人になってから外国語を学ぶ、というのはかなりストレスのかかることなのです。 自分の普段、苦労もなく使っている母語の力を借りることもできず、新しい語彙を学び、文法に頭をひねり、というのはそんなに簡単なことではありません。 まして、学んだいろいろなルールや決まりを瞬時にあれこれ混じり合わせて、自分の意見を言ったり、書いたり……。 つくづく大変な作業だと思います。これを教えることを生業にしている私は、大人の生徒さん、特に仕事で外国語を突然学ばなければいけなくなった人たちに、心からの尊敬の念を抱いているのです。 例え三人称単数のSがぶっ飛でいようが、過去形がずっこけていようが、突然やってきた海外駐在の人生で、懸命に英語を学ぼうとして大人たちには、熱いエールを送りたいです。 仕事が終わってから夕方3時間の授業では眠くなることも! このグループには、先週、「ボク、Sってもう気にしていません」 と宣言されてしまいました。ははは! 確かに三人称単数はね。でも、Sなしのセンテンスは 「セクシーではない!」 にえらく納得していただいたようで…。 教師として私にできることは、その授業自体を楽しく役に立つものにし、彼らの毎日の仕事、生活が、英語、日本語を学ぶことによっていっそう豊かになる実感を持つお手伝いをすることでしょう。 さて、冒頭の質問に戻りましょう。 「どうやって3時間も授業をしているのか、教えて欲しい」 基本的には、会話を録音し、その会話を書きだし、文法説明をします。毎回の授業で過去の会話を練習したり、応用したり、と授業そのものには繰り返しのパターンができてきます。会話が終わるたびにテストもします。 結局、自分の学びたいことが中心で進んでいく授業であれば、その授業時間が、3時間でも6時間でも、その授業はあっという間に終わってしまうようです。
by yoshimuramineko
| 2011-03-01 13:03
| 日本語教育&英語教育
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