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“チャリティ”と“ボランティア”。
この二つのコトバを聞くたびに、私は居心地の悪い思いをします。どうしてでしょう。 でも、先日、この二つのコトバを軽やかに使う女性とお話しをしました。 彼女の名前は、ヘレン・オブライエンさん。その名も明快な、『ロビンフッド財団』というダーバンのチャリティ団体の唯一の専属のスタッフです。 この団体は、とにかく透明性が売りものです。いろいろな団体から寄付をもらい、それをどこの組織も通さずに、一人ひとり、援助する物資を手渡しています。 私がこれからお手伝いしよう、と考えているのは、この団体の活動の一つ、『GO GO BAGS―おばあちゃんバッグ』です。 これは、エイズを発症して亡くなるか、またはとても赤ちゃんを育てる状態にない母親に代わって、GOGO(ゴーゴ)、こちらのズール語で“おばあちゃん”を応援しよう、という目的で、赤ちゃんが病院から帰宅するときに、そのおばあちゃんたちに一つのバッグをプレゼントするのです。 バッグの中にはこんなものが入っています。 *トウモロコシ粉 2.5キロ *砂糖 2.5キロ *米 1キロ *クッキー 1箱 *キャンディ 1袋 *ティーバッグ 100個 *魚の缶詰 1個 *固形洗濯石鹸 1個 *浴用石鹸 1個 *歯磨き粉 1つ こういったおばあちゃんたちの多くは、政府の援助金、月額9,000円で何人もの生活を賄っている場合が多いので、これがどんなに喜ばれるかは簡単に想像できると思います。 私はこのバッグがもっと頻繁にこのおばあちゃんたちに行きわたるよう、何とか援助をしようと思っています。 実は、彼女に会ったことで、私がそもそもなんで南アフリカに住んでいるか、ということを今更ながらに考えました。 私たちは、夫がJICAの職員だったこともあり、家族でアフリカの都市を転々としました。また、ずっとアフリカ暮らし、というわけではなく、このアフリカ転々の間に日本での生活を挟む、という落ち着きのなさでした。 私たちの最後の赴任地マラウィで、夫に帰任命令が出た時、子どもたちが叫んだのです。 「もうこんな生活は嫌だ、一つの場所に長く住みたい」 「日本の学校に戻りたくない」 この時、私も夫も仕事上に転換期を迎えていました。 夫は、このまま官僚組織にいても、自分のしたい仕事は回ってこない、という現実。 私は、日本での英語教育で、自分のしたいこと、挑戦したいことは一回りしたぞ、という実感。 子どもたちは、英語での勉強の方に慣れてきつつあり、日本に戻る、ということはこれまでこんなに苦労した英語での勉強を一旦中断し、またまた日本を一から勉強し直す、ということになったのです。 普段の家での会話は日本語を使っていますが、特に高校生の年齢に近かった息子は、「ボク、高校で使う漢字なんか全然わからないよ」状態だったのです。 私は自分の子どもたちのその頃の「勉強の限界」というものをよく理解できたので、インターナショナル・スクー-ルで出される毎日の宿題にへとへとになっていた彼らに、日本の通信教育の教材などを使って進める日本語の勉強をあえて強いてきていなかったのです。 その時は、「その時になったら最善の方法を皆で考えよう」と思っていました。 そして、その“時”が、来て、皆で考えた末、「よし、南アに行こう!」と、他の家族から見れば、とんでもないほど大胆に、夫は勤務先を辞職、私は自分の組織を閉鎖し、アフリカ移住を決定してしまったのです。 もちろん、こういった「分かりやすい理由」以上に、私たち夫婦はアフリカに定住して、アフリカの発展のために、個人として何かをしたい、という強い思いを抱いていたこともあります。 そして、今回、何を考えたかというと、「私が南アに移住したい」と思った一番のきっかけの、マラウィのマザーテレサの子どもの家で出会った、数多くの文句も言わずに亡くなっていったエイズに罹った子どもたちのことだったのです。 彼らの小さな体の軽さは、いまだに私の腕の中に残っています。 彼らの多くは、自分たちが何のために生まれてきたかを問う時間も、力もないまま、そして文句も言わずに、その何年かの短い命を終わらせました。 私は、教師として、大人として、これをこのまま知って知らんふりをしていたら、自分はこれまでの自分の受けてきた教育やら、志やら、理念などが全部木っ端みじんになるだけだ、と思ったのです。 アフリカから遠く離れたこういったことを知らない人たちに、この子たちのことを知らせる、連帯感を持ってもらう、そして何かの行動をしてもらう、その真ん中に立つことこそ、これまでの私のすべてが生かせることだ、と思ったのです。 南アに来て、実はいろいろな団体や活動に、首や足や手やお金を突っ込ませました。その中でも私の活動の中心はドリームセンターでした。実は、ドリームセンターはいまだに閉鎖されたままです。ここの顛末についてはこちらをご覧ください。 私はまだ自分の子どもたちに学費がかかる年齢で、彼らが独り立ちするまでには、まだまだお金が必要です。 でも、初心を忘れたらいけないですね。 どんなに普段の生活が忙しくても、仕事が不景気の波にざんぶりこんと巻きこまれたとしても、私たちは自分の志したことを継続して実行していかないといけない、と強く思います。 そうでないと、日常のつまらないことに足をすくわれてしまいからです。 いま、私は本業である、日本語、英語教育、通訳、翻訳、そして、かねてからの企画であった、ダーバンでの日本食ビジネスで、これでもか、これでもか、と仕事が目の前に積まれます。 仕事をひとつひとつ誠意をこめてこなしていくことは当然のこと。でも、仕事だけでは人生は片手落ちです。 自分のできることで、やはり世の中を少しでも良い方へ変えて行きたい、と思います。 だから、私にとって、この「チャリティ」や「ボランティア」が運んでくる、「持てる側がする施し」というようなニュアンスに、抵抗してしまうのです。だって、自分ができることを実行するのは、持てる側だからすることではないからです。 私はマラウィの死んでいく子どもたちから、どれだけの勇気をもらったことでしょう。 私が人生に必要とする勇気の100倍くらいの勇気をあの子たちは私にくれたのです。ただ、そこにいてくれるだけで。 でも、この『ロビンフッド財団』のヘレンは、「私たちはチャリティよ」と堂々の発言。 そうですね。そう言いきれる人はそうでいいのかもしれません。 さあ、私もできる限り、このおばさんロビンフッドたちを応援することにしましょう。 お知らせ 空色庵、こちらもどうぞ!
by yoshimuramineko
| 2010-03-08 01:03
| HIV/Aids
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