カテゴリ
全体 日本語教育&英語教育 HIV/Aids アフリカの空のした 吉村家アフリカを行く! 吉村家の食卓 ブログ 吉村家、アフリカを離れると……! アフリカの政治 萱葺きの家から 今月の読書と映画 アフリカの学校と子どもたち この人が素晴らしい 番外編 昭和ヒトケタ・アフリカで暮らす プロフィール 2010年ワールドカップ アフリカで日本食ビジネス スポーツの世界 未分類 以前の記事
2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
人と人との関係とは、自由にそのカタチを変えることができるんだなぁ、とつくづく感心しています。
実は、ダーバンにやってきた両親と私は、“子どもと親”という関係で一つの屋根の下で暮らしていたのは、私が19歳で米国に留学するまでの時期です。 それ以降、“帰省”、“里帰り”という形で両親の家に滞在することはあっても、毎日の生活を時期に区切りなく、一緒に過ごす、ということはありませんでした。 結婚し、子どもを授かり、といった私の状況の変化も、“家族”という大きなくくりの中では、それを皆が自然に受け止めてきてくれていたようです。 一番若い孫娘・里奈と父 そして、今回、アフリカの我が家で同居するようになった両親。これだけの状況の変化は並大抵のことではありません。 私は私側の変化にはちょっと目をつぶって、両親がいかにこの環境の激変を乗り切るか、ということに注意を払うことにしました。 具体的に何をして、彼らの生活を便利にする、ということではなくて、両親のつぶやく言葉を丁寧に聞き逃さないようにして、自然な形で生活環境を整えようと思っています。 しかし、自分の親とはいえ、この二人、逞しいです。 まず、父の心構え、というか、アフリカに住む、ということに対しての“覚悟”に接して私は感動してしまいました。 実は父は無類の酒好き。若い頃はハメを外すようなお酒の飲み方をして、母にも苦労をかけていました。が、ここ20年くらいは自分の“適量”というものがあって、滅多にはそれを越すようなお酒の飲み方をしません。 もう一人の同居人に学んでほしいところです! さて、その父が地元の酒屋で自分の飲むお酒を探していました。その時、私が「う〜ん、日本酒や焼酎は地元のスーパーでは買えないから、ちょっと遠いけれど、アジアの食材店に行って見る?」と聞いたところ、こんな答えが返ってきました。 「いや、普段飲む酒は近所で買えるものでいいよ」 父はウイスキーも嗜みますが、本当は日本酒が好きなのです。でも、毎日の生活に無理をしてはいけない、という父の覚悟に感心しました。 日本酒から白ワインへの移行……。美味しいワインが豊富な南アフリカで本当によかったです。 どうかもすると、「これだけは譲れない」という“モノ”に私たちは縛られてしまうことがあります。まして、年を取ればそういうことがあるのは当然です。でも、心をちょっと自由にすると、世界がぐっと広がりますよね。 父にとっての「これだけは譲れない」が、まだ父の生活を制限していないことに感謝しています。 さて、母ですが、どうも、父よりもまだおろおろしている気配です。 母のこれまでの楽しみは、お昼ごはんのあと、一人で自分の運転する車で近隣のショッピングセンターに出かけ、自由にいろいろなお店を見たり、食材を買ったりすることでした。 ただ、正直に言うと、この“ちょっと車でお出かけ”が家族の心配の種になっていたのです。どうしてかというと、もう80歳近くなっていますから、視力や判断力の衰えがあります。数か月前にも、道なき道に車を乗り上げたこともあり、大きな交通事故を引き起こす前に、なんとか運転をやめて欲しい、と家族は思っていたのでした。 ですから、アフリカに来ることで、母が運転から遠ざかることになったことは、家族としては「ホっ!」、と一安心なのです。が、当然、本人は物足りないようです。 「あ〜、一人で運転したいけれど、道も分からないし、言葉も分からないから無理だねぇ」とつぶやいています。 そこで登場したのが、我が家のスタッフ、プレシャスです。彼女は、最初、お手伝いさんとして我が家に来ていたのですが、彼女の能力の高さは、その誠実な人柄とともに素晴らしく、電話の応対やPCの簡単な扱いなどを学んでもらい、いまでは、私たちの会社のいろいろな業務をしてもらっています。実は、私のドリームセンターでのビーズ教室のアシスタントも彼女にお願いしているのです。 そのプレシャスは、今年の2月にめでたく、運転免許も修得していたのです。 ですから、彼女はいま、両親のお抱えドライバーです。母が「プレシャアアス、ショッピング、OK?」などと言って、近所のスーパーまで一日に一回は出かけているようです。 でも、いやああ、ずうずうしいなぁ、と思ったのが、母がプレシャスや他のスタッフたちに、自分たちのことを「お父さん、お母さんと呼んでね」、と頼んでいる場面を目撃したときです! 母に聞くと、“おばあさん”、“おじいさん”、ではしっくりとこないそうです。年齢的にはまぎれもなく、“おばあさん”、“おじいさん”なのですが……。 考えてみれば、私が学生だったころから、私の友人などに頼まれて、両親は毎年のように外国人留学生の面倒を見ていた時期もありました。米国、デンマークから、長い人は一年間くらい両親の元で日本の生活を体験していました。 そして、そんな留学生はみんな、父と母を“お母さん”、“お父さん”と呼んでいましたね。両親にしてみると、きっと、プレシャスたちもきっとそんな留学生たちと変わらないのだろうな、と思い当りました。 アフリカに来て私たちと同居することで、一挙にいろいろな人に頼りながら生活をせざるを得なくなった両親です。が、「これで自由がなくなった」とか、「日本酒が買えない」などと嘆くのではなく、その場に応じた解決策をそれほど違和感なく受け入れているようにも見えます。 年をとっても独立した人生を歩みたい、というのは立派なことです。でも、それ相当の年齢が来て、周りがそれを望んでいるのであれば、主導権をとっとと投げ出して、周りの人間の世話になるのも、これまた、人生の順当な“順番”であるような気がします。 もちろん、それを受け入れるこちら側の“忍耐強さ”も試されることに違いはないのですが……。 今のところ、両親、元気で南ア生活を送っています。
by yoshimuramineko
| 2008-11-03 23:11
| 昭和ヒトケタ・アフリカで暮らす
|
ファン申請 |
||