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南アフリカのダーバンにあるドリームセンターというエイズ患者さんの症状緩和措置病院に毎週通うようになって今年で3年目だ。私はここで、患者さんたちの人生を書き取る仕事をしている。
でも、ペースはゆっくりゆっくり。年間を通して、3名もの記録が取れれば上出来、という進み具合。アフリカで短気を起こしては駄目、とはいうものの、ここまでゆっくりできるのは私がここの定住者だから。期限のあるプロジェクトではこういうことはできないだろう。 ドリームセンターが末期のエイズ患者を多く入院患者に抱えながら、“ホスピス”ではなくて、“症状緩和措置病院”という種類の医療機関なのには理由がある。そのひとつは、このドリームセンターは、常にスタッフの数が足りなくて、患者さんに満足な看護がしてあげられない、ということ。それから、終末医療のために必要な薬が十分入手できないときがあるからだ。 そして、嬉しいことに、実は3割くらいの患者さんが、症状が改善してドリームセンターから退院して日常生活に戻ることができるのだ。だからここはホスピスではない。だが、残念ながら、こうして退院していった患者さんの中には、数ヵ月後病状が悪くなり、またドリームセンターに戻ってくることもある。 私たちは“エイズ”では死なない。エイズを発症するとは、“HIVウイルス”というウイルスに感染した人が、そのウイルスによって、本来の身体の免疫を破壊させられてしまう状態を指す。だから、患者さんたちは、身体の免疫状態が著しく衰え、日本だったらまずもう死に至る病気ではなくなった、肺炎、や下痢、といった原因で亡くなる。 私の住んでいる南アフリカのダーバンは、死因の半分以上がエイズ関連だ。つまり、街を歩く多くの人がHIVに感染していることを意味する。今年18歳と13歳になる10代の子ども2人を抱える私にとって、自分の子どもたちをこの性感染症からいかに守るか、ということは大きな問題なのだ。 だから、私はHIVやエイズ、ということを私の家族の中では普通の話題にしている。エイズに罹るな、自分の身体は自分で守れ、守れなかった人を差別するな、エイズに罹った人とどう共存していくべきか、などなど。 自分たちの生活している社会の抱える大きな問題を知らん顔しているわけにはいかないし、自分たちが何かそれに対して貢献できることがあるなら、積極的に関わる、というのが、私がしたいこと、自分の子どもに伝えたいことだ。だから、親しくなった患者さんの死に、毎回、打ちのめされながらも、くじけそうになりながらも、私は自分とドリームセンターとの関わりを途中で投げ出さない。 それから、私が心がけているのは、できるだけ多くの私の知り合いにこの活動に関わってもらうこと。私だけの力がたかが知れているのは、自分が一番良く知っている。 南アに来る前まで私が代表をしていた組織は、国際理解教育の概念をもった英語を教えるための教材を作成していた。その教材のひとつが、歌でありチャンツと呼ばれる四拍子のリズムに合わせてメッセージを伝えていく、というものだった。 その中のチャンツのひとつに、”One hand is better than tow, two hands are better than three!” という大傑作がある。一つの手よりも二つの手、二つの手よりも三つの手、というわけだ。私は自分がスーパーウーマンでないことを熟知しているから、人に助けを求めることを躊躇しない。 そして、そんな「合わさる手」の力が実りつつあるのは、去年の4月ころから始めている患者さんのためのビーズのワークショップ。これは、今はもう日本に帰国してしまったが、ダーバンで私が一番親しくしていた日本人女性、ヤスコさんの多大なる協力があって実現したもの。 彼女は日本では彫金の教師だったこともあり、こういった工芸が大得意だった。彼女の試行錯誤の元、もともとここの最大黒人部族であるZULU族の患者さんたちの伝統工芸であるビーズ細工を教えることにしたのだった。ありがたいことに、ヤスコさん以降のダーバン在住の日本人の支援も広がりつつある。 一日何もすることがない患者さんたち。その彼女、彼たちが、私たちの週一回のビーズ・ワークショップを楽しみにしてくれるようになった。それは、作ることの楽しさがあることともあるようだが、何よりも、ずばり、その作ったものが“商品”として現金収入になるからだ。一つ一つの単価はせいぜい80円から300円。でも、現金収入の道がほとんどない彼らにとって、これは画期的なこと。が、このワークショップに参加してくれる患者さんが増えるにつれて、私には大きな悩みが出てきてしまったのだ。
by yoshimuramineko
| 2007-06-05 05:06
| HIV/Aids
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