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南アフリカ・ダーバンの最大級の行事の一つともいえるイベントが毎年6月に行われます。それは、知る人ぞ知る、“コムラッズ・マラソン”です。
このレースは1921年に開始されて以来、第二次世界大戦時の休止を除けば、毎年、ダーバンとピーターマリッツバーグという都市をつないで行われる全長90キロ近い“鉄人レース”です。 “コムラッズ”とは、そもそも「戦争を共に戦った同士」といった意味を持ちます。1921年のレースは、第一次世界大戦で亡くなった戦友の霊を慰めるために34名がこの距離を走りました。 私たち家族の住むWinston Park と呼ばれるダーバンから内陸に30キロほど入った地域も、このマラソンのルートの一つに入っていて、レース中は道路が閉鎖されてしまいます。 2008年6月15日、今年のコムラッズ・マラソンが行われました。今年の距離は87キロ。毎年、どこのルートを通るかで、若干の距離の違いがでるそうです。 偶数年の2008年は、ダーバン出発の上り坂のレースでした。港町ダーバン、つまり海抜0メートルから、ピーターマリッツバーグまで、時には緩やか、時には険しい、延々と続く90キロを約5時間半から12時間かけて走るのです。ちなみに、ピーターマリッツバーグの標高は720メートルです。 このレースには、全世界40カ国から毎年1万5千人もの人が参加します。もちろん、日本からも熱心なランナーの方々が大勢参加されるようです。今年も何人かの日本人ランナーとおぼしき人を見かけました。 風光明媚なこの地域を走るのはさぞかし気持ちがいいだろうなぁ、と思います。が、繰り返します、それにしても90キロ。ただ歩くのだって、並大抵の距離ではありません。 朝の五時半に出発して、到着地点にはその12時間以内にたどり着かないと失格、という厳しいルールもあります。もちろん、通過地点ごとにも規定時間があって、何時間かけても完走すればいい、といったものではありません。 しかし、皆さん、楽しそうです。 オーソドックスなランニング姿の人もあれば、奇抜な衣装を着ている人もいます。 今年はダーバンが起点の“上り坂”レースなので、私たちの地域ではまだ30キロを過ぎた地点です。この辺を通り過ぎるランナーたちの表情もそう苦しそうではありませんでした。 街道には多くの人が出て、ランナーたちに声援を送ります。南アフリカ人はスポーツ観戦が大好きです。ラグビーやクリケットの大きな試合があると、みんながテレビに釘付けになります。そしてこのコムラッズ・マラソンも、ピーク時には街道沿いに観戦している人とテレビでの観戦をあわせると、100万人にも上るとか。 さて、私はこのところ、ぐんと増えてきた、南アフリカ人らしい黒人ランナーの姿を見ると、つい涙腺が緩んでしまうのです。 実は、このマラソンを国際的なイベントにしたい思惑があった歴代の組織委員会は、人種隔離政策中でも、1975年からは全人種がこのレースに参加できるようにしました。これは、当時としては「英断」でした。なぜなら、人種隔離政策下では、黒人が白人と競うことは禁止されていたからです。また、この全人種参加を決行する際、それまで正式には参加を認められていなかった女性の参加も許可したのです。1975年は、全人種、そして女性たちも正式にレースへの参加が認められた最初の年だったのです。 現在、このレースに出るためには、南ア人の場合、きちんと参加資格を与えられた“クラブ”に所属していることが条件です。また、過去一年間の公式のマラソンのタイムも提出しなくていけないとか。つまり、このコムラッズ・マラソンは、日ごろからかなり鍛えこんでいないと参加資格さえもらえない、という由緒正しきものなのです。 南アフリカでは人種隔離政策以前でも、白人政府は、黒人や非白人を自分たちと同じ“人間”として認めてきませんでした。一般の白人南アフリカ人は、政策の一環として、白人だけが知性、教養を持つ人種である、と信じ込まされていたのです。多くの白人が、1994年以降の政府の方向転換で自分たちがいかに、本当の情報から隔離されていたか、を知ることになります。 その中でも、彼らが何にびっくりしたか、というと、1994年以降、ありとあらゆる職種で、大学教育を受けた黒人の存在が目立つようになったのです。彼らは、自分たちの通う大学の他に黒人学生が大学教育を受けることのできる大学が南アフリカに存在していたことさえ、知らなかったのです。 ノーベル平和賞の受賞者、南アの元大統領ネルソン・マンデラ氏のことだって、一般の白人南アフリカ人は、「恐るべき共産主義のテロリスト」というイメージを植え付けられていたのです。 そういった社会で、自分の体と心を鍛えるスポーツ、というものが、いかに、黒人層には遠い存在だったかを理解していただけるでしょうか。 だからこそ、引き締まった筋肉質の体に、スポーツクラブの名入りのタンクトップを着、足は最新のNikeやら一流のカラフルな運動靴に守られた黒人のランナーを見かけると、私は心の底から、「ああ、いい時代になった」と胸が熱くなるのです。 南アフリカ社会の人種差別はなくなったわけではありません。この土地に住むものとして、その根深い人種間の隔たりに残念な思いを抱くことは大げさでなく、毎日のことです。 でも、少しずつ、少しずつ、社会は変化しています。このレースにもその兆しを感じます。 そして、もうひとつ忘れていけないのは、例年コムラッズ・マラソンが行われる6月16日は南アの『Youth Day―若者の日』という祝日だということ。ただ、今年は休日の関係で、マラソンは15日に行われました。 この『Youth Day―若者の日』とは、1976年に起きたソウェト動乱の際、命を落としたたくさんの黒人の子どもたちを哀悼する日なのです。ソウェト動乱とは、1975年から1976年にかけてヨハネスブルグ近郊のソウェトで起こった、子どもたち・学生たちの人種隔離政策への抗議デモを指します。 特に1976年6月16日に組織されたデモ活動では、2万人の子どもたち・学生たちが抗議活動を行い、警察がそのデモに発砲し、約700名の彼らの命を奪いました。自国の子どもたちに銃を向けた当時の南アの国家権力はこの動乱のあと、国際社会から厳しい批判を受けることになりました。 このソウェトの子どもたち・学生たちは、何をきっかけに、このデモ活動に参加したと思いますか。 もちろん、当時の黒人のための学校というのは、設備の劣悪さ、生徒数の多さなど、さまざまな問題を抱えていました。が、このソウェト動乱は、そういった環境面での不平等に端を発したものではなかったのです。これは、時の政府が、高校以上の学校で、授業で用いられる言語、つまり生徒たちが教えられる言語に白人の言語である“アフリカーンス”を使用することを義務付けたことに対する抗議が発端となったのです。 私は長い間いろいろな場所で言語を教えてきた教師として、一人の大人として、この歴史を忘れることができません。「自分たちの言葉で学びたい」と願って行動を起こし、命を奪われた子どもたちのことを。 そして、2008年6月15日、32年前にソウェトに散った多くの子どもたちのことを思いながら、青く澄み切ったダーバンの空の下、私は世界各国から集まった多くのランナーたちに心からの声援を送りました。
by yoshimuramineko
| 2008-06-16 23:06
| アフリカの空のした
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