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2007年から始めた私のコラムは、今回が記念すべき200本目となります。
毎週、熱心にお読みいただいている皆様に心から感謝しています。 さて、今回からデザインが変わりURLも変更になりました。新しいURLはこちらです。 http://www.cafeglobe.com/news/africa/ 今週からコメントの書き込みができなくなります。ごめんなさい。その代わりに、「吉村峰子アフリカに遊びにおいで」のコミュニティができました。皆さま、そこに、コメントやリクエスト、また私へのダイレクトメッセージなどを書き込んでくださいね。 http://commu.cafeglobe.com/community/26 (コミュニティへの参加は、cafeglobe及びコミュニティへの会員登録が必要です) 今後は、毎週水曜日更新です。本日更新はこちらからいらしてください! #
by yoshimuramineko
| 2011-05-17 18:05
| ブログ
私の旅の楽しみの一つは、見知らぬ人と思いがけない出会いです。
私は若いころから、海外旅先でも、自分の普段住む地域の出先でも、まったく知らない人に話しかけることが苦手ではないのです。 たとえば、バスの中、電車の中、“つぶやき”とか、“感想”などを偶然隣り合わせになった人に発信することもよくあります。飛行機などで、赤ちゃん連れのお母さんたちに、話しかけたり、赤ちゃんを抱っこさせてもらったり、ということもよくあります。 今回、イスラエルのテルアビブからアムステルダムへ向かう飛行機で一緒になったのは、メキシコ出身のノアさん。走ることが趣味の笑顔の素敵な19歳のお嬢さん。 ノアさんはメキシコ出身で、メキシコの高校を卒業したあと、1年間のギャップ・イヤーをこのイスラエルで過ごしました。ギャップ・イヤーとは、大学に入る前の1〜2年を使って、海外に滞在したり、仕事に就いたりすることです。 もともと、ノアさんの家族は、ユダヤ教徒で、第二次世界大戦の戦禍を逃れて、東ヨーロッパからメキシコへ移住したのでした。 今回、ノアさんの話を聞いてびっくり。 なんと、メキシコ・シティには、4万人のユダヤ教徒のメキシコ人がいるそうです。彼らは一大コミュニティを形成して、ユダヤ教の教えに則り生活をしているそうです。 4万人といったら、かなりの数だと思います。 ある特定の外国人グループが、故郷から離れた土地で、ひとつの“民族”としてのコミュニティを形成するのに、最低でも800人は必要、ということを聞いたことがあります。 逆に800人いれば、その民族をターゲットとした商売が成り立つ、ということでもあるのです。 その民族をターゲットにした商売とは、その民族が好む食事のレストラン経営、食料品販売、医療サービス、商店、不動産関連サービス、はたまた弁護士など、他の人種を相手にしなくても、そのコミュニティだけの中で、十分経済が成り立つ、ということです。 私が住んだことがある、800人以上の日本人が住んでいる外国の土地は、米国のポートランドとニューヨークでした。 調べてみると、ポートランドには在留邦人が約5000人、ニューヨークにはどうやら6万人に近い日本人が住んでいます。また、米国は、日系人も多いので、在留邦人以外にもこういった日本特有のサービスを受けたい、と思う人がいるということです。 でも、これがアフリカになると、そんな数の在留邦人はまずいません。南ア全体でも、約1500人がせいぜいで、ダーバン単独だと200人前後しかいません。 こういった数字を挙げていくと、このメキシコ・シティ4万人のユダヤ教徒のコミュニティがいかに大きいか、がよく分かります。 さて、話をノアさんに戻しましょう。 ノアさんは三人姉妹の真ん中のお嬢さん。 イスラエルには、おばあさんや親戚もたくさん移住してきているようで、幼いころからメキシコからテルアビブには遊びに来ていたそうです。 彼女は、自分たち家族のことを、 「私たちはとっても熱心なシオニストなの」 と説明してくれました。 “シオニスト”というのは、ユダヤ教徒の中でも、イスラエルに故郷を再建しようと現在のイスラエルの建国の権利を強く主張する人たちです。元々、“シオン”とは、エルサレム市街の丘の名前のようです。 エルサレムの街角で 伝統的な衣服をまとった家族 そんなノアさんは、1年間、テルアビブのキブツで生活しました。 皆さんはイスラエルの“キブツ”のことをご存知でしょうか。私が米国の学生だった1970年代の後半では、「大学を休学してキブツで生活してみる」という学生が、やけに恰好よく見えたものです。 キブツとは、元々、農業を中心とした自治区の性格を持つコミュニティのことです。ただ、現在のイスラエルには、農業を主としたものだけではなく、工業や観光業を生業としているキブツもあり、その数はイスラエル全体で、約270もあり、それぞれのキブツの構成員は100〜1000人、総人口は2010年現在で約10万人もいるそうです。 そしてこのノアさんのように、世界各国に散らばっているユダヤ人の若者が、「イスラエルに戻ってこよう」と思うのであれば、イスラエル政府は、このキブツを利用して、シオニズムを正しく理解してもらうプログラムを組み立てているそうです。 メキシコ出身のノアさん、何と、この1年間のプログラムの中には、イスラエルの軍隊に参加する時期もあったようで、かなり充実した時間を過ごしたそうです。 彼女に1年間の滞在期間中、何か一番よかったか、と聞きました。すると、ものすごく想像を超えた答えが返ってきました。 「何が一番心に響いたか、というと、それは“自由”よ!」 絶句してしまいました。 私が、“自由”という言葉を聞いて、違和感を覚え、「そぐわない」と思ってしまったのは、実際、今回訪問したイスラエルで、セキュリテの厳しさを体験したからです。また、ガザ地区では戦争に近い状態が続いている現実を知っているからです。 びっくりしている私を見て、ノアさんは、 「本当に不思議に思うかもしれませんが、今、メキシコはとっても治安が悪くて、私のような年齢の若者が、夜に街に遊びに行くことは不可能なんですよ。昼間だって、一人で歩くのは危ない。テルアビブでは、かなり遅くなってからだって、一人で遊びに行けたんです。心の底から、“自由”を満喫しました。もちろん、イスラエルと他のアラブ諸国との緊張関係は知っているけれど、テルアビブは別世界でした」 と、説明してくれました。 確かに、私も夜遅くなってから、テルアビブの街を歩きましたが、治安的に“危険”を感じることはありませんでした。 エルサレムの旧市街 ノアさんが“自由”を満喫した、という感想を聞いて、最初はびっくりしたものの、確かに、南アの都市に比べても、テルアビブは安全な都会でした。メキシコ出身の若い娘さんが、このテルアビブをそういった感覚で捉えるのも、一見、矛盾しているようですが、事実なのでしょう。 今回のイスラエル訪問で、最後にノアさんのようなイスラエルの周辺で生きる若い人に会えてとっても幸運でした。 彼女のユダヤ系メキシコ人、という生い立ちもとっても興味深かったし、世界の10代の若者の今考えていることを聞かせてもらうのは、本当にわくわくすることです。 別れる前に、メールアドレスをしっかり交換して、これから中国を旅行する、という彼女の後ろ姿をつくづく見つめてしまいました。 ああ、だから旅行は止められないし、見知らぬ人とのおしゃべりも止められません。 #
by yoshimuramineko
| 2011-05-10 14:05
| この人が素晴らしい
少女の頃、私が憧れた外国の土地は、アフリカの国々とイスラエルにある“死海”でした。
縁があって、いま私はアフリカに住んでいますが、今回はイスラエルでの仕事の合間の半日の休日を使って、この憧れの“死海”に行ってきました。 さて、死海のお話しの前に、今回の目的地のひとつ、イスラエルのことを少しお話ししましょう。 ご存じのように、イスラエルはその建国の歴史の関係で、近隣のアラブ諸国と緊張状態にあります。イスラエルの基本情報はこちらからどうぞ。 イスラエルと国交を樹立していない国々のほとんどで、イスラエルの土地を踏んだ外国人の入国を認めていません。 つまり、パスポートにイスラエルの入国スタンプがあったら、他のアラブの国からは入国拒否されてしまう可能性があるのです。また、アラブの国のスタンプがあったら、イスラエルに入国できるかどうかは、これまた微妙なものがあるようです。 現在、アラブ首長国連邦のドバイなどは、イスラエルの入国スタンプがあっても例外的に入国が認められるようです。でも、これはかなり国際政治的な絡みが強いので、こういった状態がいつまで続くのかは分かりません。 しかし、この慣例は今に始まったことではないので、いろいろな抜け道があります。 一番簡単なのは、イスラエルの入国時に、「入国スタンプをパスポートではなくて、別の紙に押してください」と申し出ればいいのです。 私がこうお願いすると、若い女性の入国管理官は慣れている様子で、何の質問もなく、スタンプを別紙に押してくれました。その後、その紙を別の関係者がばりばり、とパスポートからひきはがしてしまいました。 これにはちょっとがっかり。その“別紙”に押された入国スタンプをせめて写真でも写しておけばよかったと思いました。 今回、イスラエルに到着する前の経由地はパリでした。 パリのシャルルドゴール空港のエアーフランスは、通常であれば、機械でチェックインができます。 ところが、目的地を「テルアビブ」と押すだけで、機械がそこでストップ。 「この行き先は、この機会ではチェックインできません」 というメッセージが出てきます。 係員に質問すると、どう考えても過剰で攻撃的な反応が返ってきます。 「私たちは航空会社です。イスラエルの入国には特別なセキュリティチェックが必要なのです」 時間が迫っていることもあり、多くの人がいらだち気味。 そうしているうちに、ようやくチェックインの前のパスポートの検査が始まりました。私の前にいた、子ども連れの家族の父親がチェックインの前に、パスポート検査でどうやら「渡行不可」の判断が出た様子……。 どこの国、といった詳しい情報は聞こえなかったのですが、どうやら彼のパスポートにはアラブの国のスタンプがあったようです。 こんなことを目のあたりにすると、さすがに、イスラエルとアラブの国々との緊張関係が身近に感じられました。 さて、そんなパリでの複雑な感情を抱えながら、飛行機はテルアビブへ。飛行時間は、5時間足らずでほんの一っ飛びです。 テルアビブの入国も無事に済ませ、タクシーで街に向かいました。 テルアビスの街中にたくさんあるジュース屋さん 新鮮なジュースを手絞りで。大きめのカップで250円。 今回は南アでものすごくアポ取りに時間を費やしたのですが、連絡がついたサッカー関係者の皆さん、どうも、ものすごくのんびりしていて、おっしゃることは、 「テルアビブに着いたら電話してください」 なので、私は一刻も早くホテルに落ち着き、イスラエルのSIMカードを買って自分の携帯の南アのSIMカードと交換して、ミーティングの時間をセットしなくてはいけません。 このSIMカードとは、携帯電話に挿入するチップのことで、これを入れ替えれば、少なくてもアフリカ、欧州、米国などで、自分の携帯電話がそのまま使えます。これをすることによって、高いローミング料金を払わなくてもいいのです。 日本でもこれができるといいのですが、どうやら日本ではまだこれは一般的ではないようです。どこからの携帯電話会社がこのサービスを始めた、という話を聞いたことはあるのですが、いまどうなっているかは分かりません。 今回の出張で、イスラエルの滞在は一番長くて、八泊九日。でも、イスラエル国内をいろいろと移動するので、そうのんびりはしていられないのです。 それでも、なんとか、奇跡的にそれぞれのミーティングをセットして、クラブを訪問したり、試合を見せてもらったり、となかなか充実したビジネスに発展しています。 そんな中、ぽっかりと空いた半日。地図で場所を確かめてみると、私の子どものころからの憧れの土地、“死海”がその日滞在していた Beer Sheva の街から一時間半ほどのところにあったのです。 この機会を逃すわけにはいきません。一生懸命、車を走らせ、行ってきました。 死海は、世界でもっとも“低い”位置にある土地で、海抜マイナス400メートル、塩分、ミネラルが高密度を保っているため魚などの生き物は生息できません。塩分など、地中海のそれと比べると10倍も濃度が濃いのです。 しかし、今回、私はこれだけ憧れ続けた“死海”の近くに行くというのに、バスタオルなどを一切持参しなかった!という大失態! それでも、私の目の前で、その塩分が強いために、何もしなくても水に浮く、という噂に違わぬことを楽しんでいるカップルに、 「私のタオルを貸してあげるから、絶対に入りなさい!」 と勧められて、大喜びで“死海”に入りました。 その水はものすごくしょっぱくて、苦くて、無防備にぺろぺろと水をなめていたら、このタオルを貸してくれたカップルに、 「気をつけて!水を顔につけたら駄目よ!目にダメージが起きるのよ!」 とアドバイスを受けました。 確かに、水着を通してでも、感じることのできる塩分のきつ~い水でした。でも、この水はミネラルが豊富で、傷や内科の病気も治す作用もあるとか。 日本だったら、これは湯治場ならぬ、湯治海となっているはずです。 でも、ここイスラエルでは、大きなホテルは点在するものの、他にさしたる観光地ぽいものはなく、いたって閑散としたムードが漂っていました。 私は聖書のモーゼスのことやら、エジプト人、イスラエル人、死んでいった人たち、生きている人たちのエネルギーを身体に感じながら、少女の頃からの憧れだった“死海”で、何の努力もしないのに身体が水に浮く、というその不思議を体感していました。 #
by yoshimuramineko
| 2011-04-25 21:04
| 吉村家、アフリカを離れると……!
実は、先月に引き続き、スポーツエージェント関係の仕事で南アを離れています。
今回は、フランスに二泊、イスラエルに八泊、そしてオランダに二泊の強行軍です。 この仕事はどんなことをするか、というと、プロサッカーの世界はやはりいろいろな選手をいろいろな国に移動させることが大切です。 これには職業的に様々なメリットがあると思うのですが、私の個人的な、つまりプロスポーツ界の常識からは離れた感覚で言うと、とにかく、新しい個性が既存の集団に入ってくるのはあれこれ文句を言う前に、「とってもいいこと!」だと思うのです。 私は“前進”あるいは、“前向きな変化”が大好きな人間です。 そして、そこに付け加えたいのが、“普通とはちょっと違うこと”こそが、停滞している空気を動かしてくれる、と信じていることです。 ですから、出来上がっている集団に、異文化の投入が巻き起こすいろいろな不都合やら、一時的な不安感、焦燥感などは、あとにつづく“よき変化”への過渡期である、と堅く信じています。 そんな私ですから、南アの選手には欧州始め、イスラエルや米国、南米、もちろん日本にも行ってもらって、活躍してもらいたいのです。そして、その反対も大歓迎! そういった意味でも、前回の出張のような大きな規模での国際会議に出席することも大切ですが、今回のように自分たちから面会を申し入れ、実際に出向き、選手の売り込みに歩くこともとっても重要なお仕事なのです。 ところが!このプロサッカー業界で、「面会の約束を取り付ける」という準備段階での仕事がこれほど、大変なこととは思いませんでした。 知り合いの伝手を使い、という昔ながらの手法が一番手堅いのですが、ここはプロスポーツの世界。例え誰かを知っていたとしても、立場的に、私たちのようなエージェントを直接紹介できない、と言われてしまうことも何回もありました。 すると、どうやって面会の了解を取るかと言うと、公にされているメールアドレスに面会のリクエストのメールを送り、その後、また電話にて、しつこく、しつこく相手に食い下がり、何とか会ってもらう算段をつけるのです。 これが成功するのは、それでも、20件に一回くらいなのです。 今回、この仕事をしながら、つくづく、この社会の難しさを実感しました。 でも、一回、話がつながれば、そこで知り合いの名前を出すことも可能になり、あとはスムーズに行く場合もあります。 また、異業種からの紹介は結構つながる場合が多く、私のこれまでの人脈がここでも大きく私を助けてくれています。 これって、でも、巷で言われている“営業職”なのでしょうか。 私はこれまでこういった関連の仕事はあまり縁がなく、特に南アに来てからは初めてで、いろいろ暗中模索しながらもがんばりました。常に営業をされている皆さんには本当に頭が下がります。 ひとつ、おもしろいエピソードを。 イスラエルのプロのクラブにかなりの数のメールを送り、面会を求めたのですが、その中、二三の快い返事はいただけたもの、あとはナシのつぶて。 ここではまた引き下がれません。 で、スカイプというインターネット電話を駆使して、相手に電話をかけていきます。 ところが! イスラエルのクラブは、この頃南アでもよく出てくる音声録音による、顧客が何番かの番号を押して、自分の希望する部署に内線をつなぐ、という形式。確かにこれをすることで、代表電話などを置く必要がなく、オペレーターもいらず、かなりの経費が削減できるでしょう。 が、これね、そこで使われている言語が分かる人ならばそれでいいのですが、今回の私のように、イスラエルで使用されるヘブライ語が全く理解できないと、立ち往生です。 でもね、またまたこのくらいのことであきらめていたらオンナがすたります。 そこで、インターネットでかける電話の料金が安いことを武器に、あるクラブの番号を何回も何回もかけてそこにあるパターンを聞き取りました。 すると、どうやら数字のようなニュアンス?の音が聞こえてきたので、それを便りにいくつかの組み合わで、その音声が流れたあと、番号をいくつか押してみました。 すると、ふふふ、大成功!! 何回かの試行のあと、生身の人間にたどり着いたのでした。 これをお読みの人は、「なあんだ、だったら最初から1を押せばよかったのでは?」と思うでしょうね。 私も途中からそう思いはじめたのですが、手ごわいぞ、イスラエル!簡単な、1、とかの番号ではなくて、複数の番号を押すことを要求されているような雰囲気でした。 ここがいまだに“雰囲気”なのは、これに関して確証を持っているわけではないからです。 さて、話は前に戻り、偶然でもなんでも、生身の人間にたどり着いた後は、もうこっちのもの。何とかお目当ての人の内線を教えてもらったり、さて、メールのアドレスを聞いたりして、コンタクトをとりつけて行きます。 さて、今回、私たちはフランスを最初の目的地に選んだのですが、さすがの私もフランスのアポ取りは、現地で翻訳、コーディネイトのお仕事をしている芳美PAGESさんにお願いしました。 フランス人が頑固にフランス語でいろいろな交渉をするのを熟知していたので、ここは私が英語でがんばったとしても門前払いにされるだけ、と思い、芳美さんに依頼したのでした。 芳美さん、もう、本当に誠心誠意がんばってくれました。おかげで、短期間ではこれ以上望めないようなアポをセットできることとなり、いま、私とマイクはフランスを忙しく動き回っています。 しかし!マイクって、つくづくアフリカ人。 列車はさあ、待っていてくれないのよね〜。列車が来る時間になってから、「あっトイレ」とか言い出し、姿を消すこのオトコ……。 ああ、私は真面目な日本人なので、こっちをまとめ、あっちに謝り、などなどをしながら、何とかスポーツエージェントのお仕事、がんばっております。 車窓から見るフランスの菜の花畑? 原発大国・フランスの原発がどうしても目についてしまいました。
その横にある風力発電がなんとも優しげに見えます。 #
by yoshimuramineko
| 2011-04-20 04:04
| 吉村家、アフリカを離れると……!
私は行動する前に、“熟考を重ねて”、ということをあまりしません。
これは決して褒められたことではないですよね。 でも、感覚的に、 「あっ、これ、おもしろい」 とか、 「へええ、いいかもしれない」 「ああ、私が必要とされている……」 と思えた時には、かなりの確率で行動していることが多いのです。 さすがに、新しいことを始める前ドキドキはするのですが、それに足をすくわれて立ちつくす、ということはありません。片目をちょっとつぶりつつも、当たって砕けろ!の心意気で未知の世界にジャンプしてしまいます。 南アに移住したのだって、夫婦共々40代の二人が、南アで再就職先があったわけでもないのに、さっさとそれぞれの仕事を退職して、るんるんと新しい可能性だけに期待を寄せて、海を渡ったのでした。しかも二人の子どもを連れて! そこには、 「う〜ん、駄目だったら、また日本でやり直せばいいね」 という超お気楽な考え方がありました。 結果として、南ア移住は私たちに日本に住んでいたら考えられないような出会いやら人生をもたらしてくれました。 夫は確かに不慮の事故で急逝してしまいましたが、彼が南ア移住したことを後悔していたことは一回もありませんでした。 夫は、南アに移住して自分の会社を興し、組織に縛られることのない生活を心の底から楽しんでいました。だから、あんな形でこの世からさよならしてしまいましたが、彼にとって、「人生悔いなし」の生活を南アで送れたことはシアワセだったと思うのです。 で、もちろん、このお気楽な性格、いいことばかりなわけではありません。嫌と言うほど、大変な思いをすることも多いのです。 「何をしても、後悔はしません」という潔さは、私にはありません。 もう大バケツで頭からどっぷり水をかぶるほど、後悔だってたくさんしてきています。 そういったことが重なると、さすがの私もちょっと反省します。 でも、それが次の行動につながるか、というと、これまた三つ子の魂何とやら……で、なかなかそうはいかないのです。人に騙されたり、利用されたり、といったことだって何回もあります。 そんなことが続けば、どっぷりと何日か、落ち込むこともあります。 でも、落ち込んでも、落ち込んでも、不思議なことに、私はどういうわけか立ち直ってまた前を向いて歩いて行こうとします。 今日は、私がどうやってそのどっぷりと落ち込んだ自分を慰めるか、ということをご紹介しようと思います。 だって、これだけ失敗、後悔をしてきていても、私は、自分の中から湧いてくる「前進して行こう!」というしぶとさが、自分ながらなかなか気にいっているのです。 人生は一回切り。だからこそ、“失敗”くらいで行動を制限していたら、オンナがすたる、というものです。 行動しないでする後悔より、行動したあとでの反省の方が、世の中の空気が軽くなる、というものです。 ふふふ、これだけ前置きが長いと、ものすごい人生指南が来るのでは?と期待させてしまいますよね。 ごめんなさい、大したことはないのです。 私は、自分がどっぷり落ち込んだ時に、必ずすることとは、 「いつものご飯を丁寧に作ってきちんと食べる」 これに、尽きるのです。 夫が亡くなった後も、さすがに最初の一カ月は呆然としていましたが、ご飯をつくることは忘れませんでした。 これは私が、“お母さん”だから、ということもあるのでしょうが、例え、作ったご飯がすんなりと喉を通らなくても、まったく味がしなかったとしても、毎日のご飯を作ることを中断することはありませんでした。 お米を研ぐ、野菜を切る、お出汁を取る、魚、お肉を焼く、プレースマットをひく、お茶碗を並べる、できた食事を盛り付ける。 こういった一連の仕事にただただ従順に向き合います。 今日の朝ごはんはトーストの上にカッテージチーズとアボカド アールグレイのミルク入り紅茶とオレンジジュースも一緒に すると、こういった作業が、自分の体にリズムを取り戻してくれるのです。 もともと、食いしん坊の私のこと、最初は食欲がなくても、こういった作業をして、出来上がったご飯を口にすると、炊きあがったばかりのご飯や、水水しい野菜や、美味しいお魚が、優しく、頼もしく、私を“生きること”への毎日に誘ってくれるのです。 夕飯は、ジンジャーとニンニクにつけたポーク大根おろし添え、 ほうれん草と油揚げ、野菜たくさんのお味噌汁、 スモークトエンジェルフィッシュ、いろいろです! 落ち込んだ時、そしてその落ち込みから這い上がりたい時には、どんなに面倒くさくても、自分に鞭を打つ気持ちで、私はこれを繰り返します。 そうすると、いつの間にか、私はまた明日に向かってがんばろう、という気持ちが出てくるのです。 単純すぎるでしょうか?でも、皆さんも試してみてくださいね。私はこれで何とか、辛い時もがんばってきています。 そして、まだまだ大変な生活が続いている皆さん、普段の生活をするのさえ難しいですよね。でも、きっと、また何でもないことのように、お米を研ぎ、野菜を洗い、魚やお肉を料理する毎日がやってきます。 きっと、きっと、やってきますから、どうぞ、希望を捨てずに毎日を送ってくださいますよう。 #
by yoshimuramineko
| 2011-04-12 18:04
| 萱葺きの家から
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